三木市 本長寺と三木町義民の墓 on 2013-4-21 |
紹介します。
本長寺の基本情報
住所:三木市府内町6−43 TEL:0794-82-6173
宗派:本門法華宗
創建:承慶和尚(大西与右衛門 元別所家家臣の加古与七郎秀久)文禄元年(1592)
大西与右衛門は平山町で造り酒屋を営む 屋号は小浜屋
上の写真は入口の山門。
上の写真は現地(山門付近)に掲示されていた説明板です。そのまま引用させて
いただきます。
1)大西与右衛門と本長寺
三木城主であった別所長治の家臣加古与七郎秀久は、三木が戦に敗れた後、
自分の幕下(=家来)になるよう豊臣秀吉に勧められました。秀久は「武士は二君に
仕えず」と丁重に断り、別所氏の家臣として忠誠を守ったと伝えられています。
秀久の武士としての気構えに感動した秀吉は、秀久に母衣(よろいの下に着る
矢よけの着物)を授け、杯を取らせました。その時、西から風が一段と強く吹き、
そばの竹林から笹の葉が舞い散り、その一葉が秀久の杯に落ちました。
秀久はこれを見た秀吉から、「九枚笹」の家紋と大西の名字を賜りました。
その後秀久は屋号を小浜屋と称し、名前を大西与右衛門と改め、平山町で造り
酒屋をひらき、町人として暮らしました。晩年に与右衛門は仏門に入り、僧名を
承慶と名乗って主君別所氏の冥福を祈るために文禄元年(1592年)本長寺を建立し、
以来大西一族の菩提寺となりました。
2)秀吉の母衣(ぼろ)と手箱
大西与右衛門は、秀吉の身につけていた母衣と、それが納められていた手箱を秀吉
より拝領しました。それがこの本長寺に残っています。
3)三木町義民の墓
三木は別所氏時代、秀吉時代、徳川時代へと永代に渡り、免租地でしたが、
延宝5年(1677年)幕府は「延宝検地」という令を出し、年貢を取る通知を
交付しました。町民は困って話合い、幕府に取り消しの直訴に行く三木の代表として
名乗り出たのが、平田村の年寄:岡村源兵衛成次と、平山の年寄:
貝屋大西与三右衛門の二人で、死罪を覚悟で幕府にお願いをして取り消してもらいました。
その後二人は義民と呼ばれるようになりました。義民の一人、大西与三右衛門の墓所は
本長寺(三木市府内町6-43) にあり、毎年12月8日には義民冬祭りが本長寺で
行われています。
上の写真は本堂の建物。
上の写真は義民の顕彰碑。
上の写真は義民 大西与三右衛門の墓。
上の写真は本堂の横に展示されていた鬼瓦など。
上の2枚の写真は境内の様子です。
毎年12月8日には冬の義民祭が本長寺で行われています。
2010年の冬の義民祭の式次第を添付しておきます。
行事内容:
(1)本堂読経 午後0時30分 ~ 1時
(2)墓前法要 午後1時 ~ 1時45分
(3)詩吟詠
(4)義民のうた合唱 三木小学校児童
(5)奉納柔道大会 午後2時 ~ 4時
団体の部 幼稚園から中学生約100人
個人の部 (雨天の場合は、武川道場で行う。)
主催者:三木義民顕彰会
問い合わせ先:三木市 市民ふれあい部市民協働課 電話:0794-89-2311