神戸市北区淡河町 歳田神社に残されていた豊臣秀吉の制札 |
せいさつ【制札】とは 世界大百科事典 第2版の解説では下記のように定義しています。
禁制を木札に書いたもの。中世において法令発布や戦乱の際,権力者が申請によって
神社や寺院その他の一定地域内での乱暴停止などの禁制を発し,その内容を個条書き
にして広く民衆や軍兵に知らせるため,木札に書いて寺社の門前や村落の入口などに
掲げた。中世の記録によれば,受益者が板など材料を用意して禁制の下知者に書いて
もらったようである。高札【飯倉 晴武】
神戸市北区淡河町 歳田神社には羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が天正7年(1579)と、
天正8年(1580)に発給した制札(木札)2枚が「発見」され2004年5月に神戸市と
神戸大学連絡があり調査が進められました。
詳細は神戸大学の下記サイトで紹介されています。
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/saita.html
(1)天正7年(1579)6月28日 の制札について 38.8cm×36.8cm
上の2枚の写真は神戸市立博物館が2007年に開催の特別展「神戸の文化財Ⅱ」で
展示された天正7年の制札の写真で。上は実物そのままで下の写真はその赤外線写真です。
文章が完全に判読できない部分もありますが下記のように書かれています。
掟条々 淡川市庭
一当市毎月 五日 十日 十五日 廿日 廿五日
晦日之事
一らくいちたる上ハしやうはい座やくあるへからさる事
一くにしちところしち[ ]□事
一けんくハこうろんりひせんさく□(にヵ)を□□(よハヵ)す双方
せいはいすへき事
一はたこ銭ハたひ人あつらへ次第たるへき事
右条々あひそむくともからこれあらは地下
人としてからめをきちうしんあるへしきうめいを
とけさいくハにおこなふへき者也仍掟如件
天正七年六月廿八日 秀吉(花押)
現代語訳
掟条々 淡河市場
一、当市は毎月、五日、十日、十五日、二十日、二十五日
三十日に開催すること
一、楽市である上は、商売上の座の課役があってはならない
一、国質(くにじち)、所質(ところじち)は(取ってはならない)
一、喧嘩口論はどちらに非があるかを調べるまでもなく双方を
処罰すること
一、宿代は旅人の注文した内容に応じたものにせよ。
右の箇条に背く者があれば、地元の者が捕らえて報告しなさい(そうすれば)
尋問を行い、処罰する。よって
掟はこのとおりである。
天正7年6月28日 秀吉(花押)
上記のように五箇条からなり1)楽市の日指定、2)楽市たる上は商売座役停止、
3)国質所質停止、4)喧嘩口論両成敗、5)旅籠銭は旅人次第 と書かれています。
天正7年5月26日織田の軍に淡河城を囲まれた淡河弾正忠定範は淡河城を開け
三木城に入る。(信長公記)
空っぽになった淡河城には、淡河城の東(長松寺付城)に布陣していた有馬法印則頼が
入城した。それから約1ヶ月後に上記の制札が出されています。
楽市が書かれて制札は全国でも3例目(6枚目)で貴重です。秀吉は宿場町淡河町の振興
のため商売上の特権を地元民に与えました。
(2)天正8年(1580)10月29日の制札 42.1cm×33.0cm
上の2枚の写真は神戸市立博物館が2007年に開催の特別展「神戸の文化財Ⅱ」で
展示された天正7年の制札の写真で。上は実物そのままで下の写真はその赤外線写真です。
天正7年の制札に較べると文字がはっきりと判読できます。
下記のように書かれています。
条々
一当所奉公人何も立置候間可為如先々事
一同町人如有来無異儀可商売事
一下々猥之族不可有之事
右条々違乱之輩有之者堅可
加成敗者也仍如件
天正八年十月廿九日 藤吉郎(花押)
現代語訳
条々
一、当所の武家奉公人は、先々のように(ここに居住して良い)
一、同じく町人も以前のとおり相違なく商売せよ
一、下々(この市場)の治安秩序を乱すものがあってはならない
この条文に背くものがあれば、厳しく罰する よって(定めるところは)
このとおりである
天正八年十月廿九日 藤吉郎(花押)
(3)淡河町由緒書 貞享3年(1686)12月
明石藩の淡河組大庄屋を務めた村上本家(村上藤兵衛)に制札とともに下記のような
由緒書が残されていました。三木合戦における淡河城の攻防や江戸時代の淡河の歴史
の一端を垣間見ることができる文書です。
上の写真は神戸市立博物館が2007年に開催の特別展「神戸の文化財Ⅱ」で展示
されたものです。
神戸大学の上記サイトより原文の内容を以下に転載させていただきます。
覚
一 古へ淡河上山之城主淡河弾正殿・別所甚太夫殿右両人ハ三木之城主別所小三郎殿御一族、天正年中 太閤様三木之城御責被成候節、上山之城ハ有馬法印・同四郎次郎殿江従 太閤様被 仰付、御落城之節甚太夫殿ハ夜ニまきれ御忍出、三木之城へ御引籠、其後有馬法印・同四郎次郎殿へ、御城主法印御所替已後ハ姫路御領分ニ成、池田三左衛門殿御支配、其後より古城ニ成
一 右之城御責被成候寄手之大将 太閤様より被仰付
一 寄城本城より東ニ当テ四丁有馬法印付城
一 同南ニ当て弐丁半有馬四郎次郎殿付城
一 同西南ニ当て弐丁浅野弾正殿付城
一 同北ニ当て八丁余杉原七郎左衛門殿付城
一 木津之城天正年中之比有馬法印御取立、則御城主也、淡河之城へ御移り被成候節より古城ニ成、往還より南ニ当て弐丁余
一 淡河町ハ古へ中村と申在所にて、道筋ニ漸家弐拾軒計有之候、然所 太閤様西国御発向之時、中村□(ニ)両度迄御滞留被遊 上意ニ者海辺通路停止之事ニ候間、此道筋往還ニ可然候、□(中)村を宿次之町ニ取立候様ニと有馬法印へ被 仰付、大庄屋藤兵衛先祖喜兵衛を被召出 太閤様江御目見被為 仰付、町取立申様ニとの蒙 上意、牢人或ハ町人共相集、屋鋪を申請、町並能宿次ニ罷成次第ニ栄へ、太閤様御機嫌能、月ニ六日之市日を御定、御制札ニ御直々御判被成下、町之支配諸事喜兵衛ニ被為 仰付、則同心五人被付置、弥町繁昌ニ罷成候、依之諸役御赦免之御証文被下置候、大庄屋喜兵衛江為御褒美、御検地之節高拾石御赦免御証文頂戴仕候、御守護法印様御所替にて、姫路御領分池田三左衛門様御知行所ニ成、然処ニ九年之内町中三度火事ニ相、御証文不残消失仕、漸御札場ニ有之候御制札相残、其後御証文之申請度旨三左衛門様御役人中へ申達置候処、御所替ニ付、弥御証文申請度と願候へハ、御所替之砌故重而之御守護様へ御伝置可被下由にて出不申候、小笠原右近様御入城已後諸事御尋ニ付、町之由緒申上候へハ、御家老原与右衛門殿御取次にて御免許之御証文并大庄屋藤左衛門自分之御証文弐通頂戴仕、夫より御代々御守護様御証文被下置所持仕候
淡河大庄屋
貞享三年 藤兵衛
寅極月
右者松平若狭守様御家来大田一右衛門殿へ書上ル
淡河城の訪問記(小生のBlog)にリンクしておきます。
淡河城跡 訪問記 on 2013-4-14
本日から2泊3日で小豆島まで旅行に行きますのでBlogの投稿をしばらくお休みします。