香川県小豆郡土庄町の尾崎放哉ゆかりの地訪問記 2013-5-7&2013-5-8 |
歩きましたので写真紹介します。
散策にあたっては尾崎放哉資料館のリーフレットの裏面の尾崎放哉ゆかりの地案内図
を手にして各所を訪れ写真を撮りました。
上述の案内図(下に添付)の転載にあたっては尾崎放哉記念館(南郷庵跡)の許可を得て
おります。
(尾崎放哉記念館 提供)
上記の地図で放哉さんが来た道に注目していただきたい。
尾崎放哉(ほうさい)が小豆島に来たのは大正14年(1925)8月13日のことである。
一高、東京帝大の1年先輩で「層雲」(明治44年(1911)創刊)の主宰者である
荻原井泉水(せいせんすい)が紹介してくれた井上一二(いちじ)(本名は文八郎)宅を
訪問するのが小豆島行きの目的であった。
ここで井上一二に小豆島での逗留を断られたら台湾行きを覚悟していた。
尾崎放哉は40歳で過去の無理な生活により肺炎系の病気に冒されており放哉本人は
死に場所を探しての旅路であったとも言える。
前日(大正14年=1925-8-12)、荻原井泉水らに見送られ京都七条駅を出たは20時30分
で翌日(1925-8-12)の朝、岡山駅にそれから宇野に行き正午過ぎの土庄行きの船で
小豆島(土庄)の土を踏んだ。
(以上は吉村昭著「海も暮れきる」講談社文庫を参照)
真夏の午後、上記の赤い矢印の道を通って井上一二宅に到着した。
その時に詠まれた句が次の2句である。
「ここまで来てしまって急な手紙書いている」
「島の小娘にお給仕されている」
その後の出来事について箇条書きで記載する。
小豆島時代に約3,000の句を残したと云われています。
以下は瓜生鉄二著 日本の作家47「波浪の詩人 尾崎放哉」新典社刊 昭和61(1986)
を主に参照して若干追記した。
8月14日 四国高松(丸亀)の国分寺住職童銅龍純師を訪ねる
丸亀の「層雲」同人内藤寸栗子さん宅に宿泊
8月15日 西光寺の住職 杉本宥玄師(俳号は玄々子)を訪ねる
吉村昭著「海も暮れきる」講談社文庫の内容から判断すれば8月16日
8月20日 西光寺の奥の院、南郷庵(みなんごあん)に入庵
9月1日 入庵食記をつけはじめる
9月22日 飯尾星城子、和田豊歳が南郷庵に来庵
10月2日 南郷庵に安住が決まる
10月20日 地元の木下医師に診察してもらう 「左肋膜癒着」の症状
11月26日 内島北朗が南郷庵に来庵(11月30日まで)
11月29日 住田蓮車が南郷庵に来庵(11月30日まで)
12月 島の寒さが厳しくなり、島の烈風に悩まされる
大正15年(1926)
1月31日 左肋膜癒着の症状が重たくなり衰弱ひどくなる
2月2日 不治の病「肺結核合併症」の宣告受ける
2月13日 立石信一が南郷庵に来庵
3月11日 肺結核合併症の進行で食べ物が喉を通らなくなる
4月7日 午後8時頃 南堀シゲさんの看病を受け入寂
4月9日 妻の尾崎馨、荻原井泉水、内島北朗、姉の並が来庵し西光寺の墓地に
埋葬される。戒名「大空放哉居士」。
大正14年(1925)の8月から翌年の4月までのわずか8ヶ月の間であったが尾崎放哉は
南郷庵で毎月200余の自由律俳句を創作した。
前置きが長くなりましたが訪問した場所の写真紹介をしていきます。
1.小豆島 尾崎放哉記念館(南郷庵跡)
住所:香川県小豆郡土庄町本町甲1082 TEL:0879-62-0037
公式HP:http://www2.netwave.or.jp/~hosai/index.htm
1994年4月7日に開館
上の写真が尾崎放哉記念館(南郷庵跡)の建物です。
上の2枚の写真は尾崎放哉記念館(南郷庵跡)の看板です。
表面は尾崎放哉の句で「障子あけて置く 海も暮れ切る」大正15年1月の層雲に
掲載された句で孤独な気持ちと海の好きな尾崎放哉らしい句である。
裏面は三日月湯の看板で西光寺の近くあった銭湯。
層雲の大正15年1月号より5月まで尾崎放哉の日常生活を綴った「入庵雑記」が
掲載されておりその中に三日月湯の他に大福湯、小豆郡役所、料亭赤松楼、郵便局
次郎はんのうどん、余島の米屋、土庄の役場、石屋の岡田、高松行の待合所などの
名前が見られます。
上の写真は大正14年12月27日に尾崎放哉が荻原井泉水に出した書簡を石碑に
刻んだものです。
井 師 座下 二十七日昼 放 哉 生
今日ハ旧ノ十一月十一日、新ノ十二月二十六日卜云フ日……此ノ日、朝カラ妙二風呂ニ
ハイリ度イ気持ガ出テ来タ、可笑シイ事ダナと思ふ、(或ハ新年ガ近イカラ、
旧イ習慣ガ、ソンナ気ヲサセタノカ)正ニ決シテ威張ルワケデモなんデモナイガ、
這入リ度イ気持ガ今迄ハ出テ来なんだノデスヨ、……ソレガ、今朝カラノ気持!
正ニ四ケ月目ノ入浴也、以下の文は省略
4ヶ月ぶりに入った風呂で気持ちがよかったこと、14貫あった体重が10貫に減り
無理がきかないヤセタ体のこと自分でもあきれると書いています。
尾崎放哉は筆まめで500通以上の書簡が残されており研究者にとっては貴重な資料にも
なっているようです。
上の写真は句碑で 「いれものがない 両手でうける」。
以前は一本松の根本近くにあったが新しく尾崎放哉記念館(南郷庵跡)を建替える時に
現在の位置に移動されたそうである。
西光寺と井上一二宅の方向に向けて建っています。
上の写真は尾崎放哉記念館(南郷庵跡)の前の石碑を撮ったもので
尾崎放哉の句「翌(あす)は元日がくる 仏とわたくし」と
荻原井泉水の句「為ることはこれ 松の葉を掃く」
一本松と南郷庵の絵が印象的であった。
上の写真は小豆島で尾崎放哉の世話をした井上一二の筆でやはり一本松と南郷庵の絵と
尾崎放哉について書かれています。
上の写真は尾崎放哉記念館(南郷庵跡)より北側を眺望したもので遠くに岩肌が
露頭している皇踏山の山並み、ちかくには西光寺の三重塔が望めます。
上の写真は尾崎放哉記念館(南郷庵跡)敷地内の藤棚と五輪塔、石碑で石碑には
正面に「奉供養大師堂之塔」左側面には発願主 円心禅門と書かれています。
層雲に掲載された入庵雑記に「朝夕八畳に座って居る私の眼から離れたことが
ありません」と記述されている石碑である。
2.尾崎放哉の墓(戒名:大空放哉居士)
上の写真が尾崎放哉の墓です。
妻の尾崎馨が費用を負担して建てたそうです。
昭和2年(1927)4月7日の法要で尾崎放哉の遺骨を分骨して尾崎放哉(秀雄)の生まれ
故郷の尾崎家の墓(興禅寺)に納骨されたそうです。
3.小豆島八十八ケ所 第58番 西光寺
住所:香川県小豆郡土庄町銀杏通り TEL:0879-62-0327
宗派:真言宗 御本尊:千手眼観世音菩薩 山号:王子山蓮華院
御詠歌:にごりなく 心の水を澄ましなば むねのはちすの 花もひらかむ
由緒:弘法大師の開基 中興は天正7年(1579)龍弘上人
26世杉本宥玄和尚(明治24年~昭和39年(1964)2月20日)が
小豆島の尾崎放哉の面倒を見た。
上の写真は西光寺の本堂。
上の写真は小豆島八十八ケ所 第58番奥の院、誓願ノ塔(三重塔)の遠景。
西光寺より臨む。
上の写真は西光寺の三重塔。三重塔は- 西光寺中興400年の記念事業の一環として
昭和50年(1975年)に建立された。塔名称は「誓願の塔」。和様、木造、本瓦葺。
塔内に金剛界大日如来安置。
上の写真は山門。朱色が生えて美しい。
上の写真は境内の句碑で尾崎放哉の代表句ともいえる「咳をしても一人」
と同じく自由律俳句で有名な種田山頭火の句「その松の木のゆふ風ふきだした」
昭和14年10月21日に種田山頭火が尾崎放哉の墓前に詣でたときの句である。
上の写真はかって南郷庵に置いてあった人形地蔵尊です。
現在は西光寺の本堂に安置。
4.土庄港の句碑
撮ることができませんですた。
句碑には「眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る」と刻まれているようです。
替わりに24の瞳で有名な平和の群像の写真を掲載させていただきます。
5.本覚寺の荻原井泉水の句碑
まず本覚寺の境内のお堂の紹介をします。
上の写真は本覚寺境内の案内図です。
上の写真は小豆島八十八ケ所 65番の光明庵です。
上の写真は小豆島八十八ケ所 53番の本覚寺
上の写真は層雲園と名付けられた本覚寺の一角で荻原井泉水の句(右の石碑)と
井上一二の句碑(左の石碑)が並んでいます。写真全体では左手にある石碑です。
荻原井泉水の句「ほとけを しんず むぎのほの あおきしんじつ」
井上一二の句「杖を洗って くれかかる月」
上の写真は荻原井泉水の奥様桂子夫人の句碑で「夕となれば風が出る山荘よともし火」
と詠まれています。大正9年4月に夫妻で20日ほど小豆島に逗留し、
小豆島八十八ケ所巡りを8日間かけて巡礼したそうです。
6.井上一二邸跡
上の写真は井上文八郎(俳号は井上一二)の邸内の観音堂。
現地の説明板では次のような説明がありました。(下の写真)
上の写真は説明板にもあるように文久年間に植えられたと伝えられている
井上邸前庭のオリーブの木で、平成元年に井上邸前庭が駐車場になった時に
観音堂のの隣に移植されたものでおそらく日本最古のオリーブの老木である。