三木合戦 羽柴秀吉 平井山本陣跡 on 2013-4-21 |
撮ってきましたので紹介します。
平井山本陣跡という表題をつけていますが、この場所は最近の研究で
平井村中村間ノ山付城跡ということが判ってきました。
私のブログで紹介しているのが秀吉本陣跡(平井山ノ上付城跡)だそうです。
従来の場所は昭和39年(1964)のNHK大河ドラマ「太閤記」(緒方拳主演)
ではこちらが秀吉本陣と解釈されていた。
宝暦12年(1762)に刊行された播磨鑑の三木城寄衆次第によれば
平井村中村間ノ山付城跡には竹中半兵衛が平井山ノ上付城跡には
大将の羽柴秀吉が陣を貼ったと記載されています。
(以上 2014年1月13日 追記)
三木合戦 羽柴秀吉 平井山本陣跡の基本情報
住所:兵庫県三木市細川町細川中
地図:下の写真(案内板より)
上の写真が三木合戦 羽柴秀吉 平井本陣跡(主郭)です。
正確な名前は平井村中村間ノ山付城跡。
こちらより500mくらい南の位置に平井山山ノ上付城跡がありこちらが正確な
三木合戦 羽柴秀吉 平井本陣跡というべきという説が有力である。
上の写真は現地の説明板です。下記のように書かれています。
「今を去る四百有余年前、時は天正五年(1577)主君織田信長から中国征伐を
命じられた羽柴秀吉が、播州一円の攻略に当たっていたが翌年六月、播州三木城城主
別所長治の征伐に向かい、この平井山に本陣を構え、数千の城兵が立籠もる三木城を
十重二十重に包囲し、約三年の歳月を要して遂に陥落した。
城主別所長治一族は、城兵の助命を請うして自刃し、東播の地は完全に秀吉の翼下と
なった。時は天正八年正月十七日である。秀吉もこの対陣中に軍師竹中半兵衛重治を
失い大きな痛手を受けたが、これが後年秀吉が自慢する三木の兵糧攻めであり、
全精力を傾けて策略を練った本陣跡である。」
上の写真は軍師竹中半兵衛重治の墓から現地の平井山本陣跡に向かう途中にあった
説明板です。三木城の包囲の様子が説明されています。
上の写真は三木城を包囲した秀吉軍に陣構えです。(説明板より)
上の図は三木市観光協会から刊行の「探訪 三木合戦」のPage7からのコピーで
三木城を包囲した羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍の武将配置図です。
平井山の合戦
天正7年(1579)2月6日、三木城に籠る別所方は、このままなす術も無く、兵糧が減り
続ける事に対する怖れと、事態打開のために、強硬派である別所吉親の策を採用して、
平井山本陣を急襲することとなった(平井山合戦)。
この戦いに投入した別所方の兵力は2500とも3500ともいわれている。
しかし、この行動は、平井山の秀吉本陣からは丸見えであったため、秀吉は有効な対策を
行い、別所軍を撃退した。この戦いでは、長治の弟別所小八郎治定が後陣として参加して
いたが、敗戦により討死している。
先陣の大将は別所山城守吉親で途中与呂木村で2隊に別れ、先手に1,000騎あまりは秀吉
の本陣目指して大激戦となりました。
別所小八郎治定(別所長治の弟で当時18歳)は十文字槍で戦いましたが羽柴秀吉方の
樋口太郎に組み伏せられ討ち死にしました。
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