竹中半兵衛の墓 in 三木市 on 2013-4-21 |
(平井山本陣跡の東南のぶどう園の中)にあります。
2013年4月21日に写真を撮ってきましたので紹介します。
竹中 半兵衛重治についてWikipediaより
竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。
子に重門。従兄弟に竹中重利。
戦国時代を代表する軍師[注釈 1]としても知られ、織田氏の家臣である羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」
「二兵衛」と称された[1]。
多くの軍功に関する逸話や美談を残しているが、現在では後世の創作によるものと
みられているエピソードも数多く、史実上の活躍の実態が不明瞭な人物でもある。
注釈 1]:軍師という言葉は創作上の代物としての意味合いの方が大きい為、実際には
参謀と表した方が適切
[1] :中国の漢王朝創設に活躍した張良と陳平に例えられている。信長の軍勢を寡勢で
何度も破ったことから、軍略の天才として、「今楠木」と称された。
『武功夜話』によると、「その才温雅にして慈眼あり学才あって軍書に詳しい」と
あり、戦場では常に「泰然自若の構え」で敵と対したと記されている。
上の写真は竹中半兵衛の案内標識と遠景。ぶどう園の中にあり白い練り塀で
囲まれています。
上の3枚の写真が竹中 半兵衛重治の墓です。
竹中半兵衛は、自分の後任に黒田官兵衛を推挙して、陣中で亡くなりました。
享年36歳 法名は深龍水徹。近くの栄運寺に位牌と「浄源院殿霊誉居士」の墓あり。
燈籠には文化3年(1806)の銘が入っています。
上の写真は墓内の説明板である。要約要約させていただきます。
三木城攻防戦がたけなわのころ、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していた
竹中半兵衛は、進展しない三木合戦の戦況を心配し、京都からカゴにのって平井山本陣に
帰ってきましたが、病魔に勝てず天正7年(1579)6月13日に永歿しました。
臨終の時、秀吉に対して将来の天下人と予言しました。秀吉は人前もはばからず
「お先まっくら」ととりすがったと言われています。
また、地元の老人会が昭和48年8月に作製した説明板もありました。(下の写真)
竹中山と呼ぶ村山1ヘクタールが残され、村人により6月13日の命日には供養も
実施されているとの説明が書かれています。
竹中半兵衛が一躍有名になったのは、何と言っても稲葉山城乗っ取り事件である。
かっての仕官先の斎藤龍興を滅ぼしたのである。
堅城を誇っていた稲葉山城は竹中半兵衛ら十数人の一時的な「クーデター」により
占領されたのである。この策略家に目をつけたのが羽柴秀吉である。
織田信長の一将校にすぎなかった秀吉が何回も口説き何とか秀吉の家臣として迎え入れる
ことに成功したのである。
また天保年間(1830-1843)に竹中半兵衛の墓所を参拝し、詠んだ山田翠雨先生の漢詩
について紹介した説明板もありました。(下の写真)
山田翠雨について大正10年刊「武庫郡誌」とコトバンクより引用させていただきます。
山田翠雨 (やまだすいう) 1815-1875は 江戸時代後期の儒者。
山田翠雨名は修敬、翠雨は其の号なり。文化12年(1815)中村に生る。
注釈:中村は現在の神戸市灘区中郷町か?
家は代々医を以て業とす。修敬幼より学を好み、郷学を終えて浪華に出で、
後藤松蔭・篠崎小竹の門に遊び、後郷に帰りて父業を続ぐ。性恬淡小節に拘らず、
中年より遊歴を好み、六十余州足跡を印せざる所なく、到る所名山勝水を賞し、
自家の嚢中作詩の資料として楽しむ。故に翠雨の詩は画家の写実の如く、
敢えて工を加えず、専ら其の実況を主とせり。丹生樵歌と称する一巻は、実に
翠雨詩集の遺稿にして、天保四年即ち翠雨19歳の時より、安政元年即ち
其の四十歳に至る20年間の作集なり。
また,漢詩は梁川星巌(やながわ-せいがん)にまなぶ。
山田の勝たるや、翠雨に依りて生きたるもの少なからず。殊に蝙蝠渓の勝に
於いて然りとす。即ち同志に謀りて醵金し、荊棘を艾り道路を拓き巌上に
蝙蝠亭を建て、月花雨雪の眺めは更なり、渓間に鮮を漁し、後壑に薇を採る、
清遊の地となさしめたり。其の蝙蝠亭の遺跡此の人去りて後は、徒に風餐雨蝕に
任せて顧みる者なく、今は勝地の樹石すら伐るに任せ、取るに任じて遂に凡化し、
人更に平凡化せり、嗟乎。安政6年(1859)翠雨家を京都三条碩町に移す。
其の配淳子、亦和漢の学に通じ、殊に国風に善し。
慶応年間に美濃(岐阜県)の八幡藩にまねかれ,藩校文武館でおしえた。
明治8年(1875)8月5日死去。