2013年 05月 20日
谷大膳の墓 in 三木市大村 on 2013-4-21 |
2013年4月21日に三木市大村の谷大膳の墓に行ってきました。
写真紹介します。谷大膳の墓は、平田小学校の裏手にあります。
谷大膳の基本情報 Wikipedia他より引用
正式な名前:谷大善亮衛好(たにだいぜんのすけもりよし)又は谷衛好(たにもりよし)
生誕: 享禄2年(1529) 父:福田正之(谷野親衛の次男)、母:蒲生将監貞之の娘
養父:谷野太郎左衛門綱衛 兄:福田正舜 弟:土田小傳次
生誕地:美濃国席田郡伊地良村 幼名:小太郎
養父の谷野太郎左衛門綱衛の在所(近江国甲賀郡長野)で育った
主君: 斎藤道三→義龍→龍興 織田信長→羽柴秀吉
官位:大膳亮・大膳大夫
織田信長の家来として石山の戦いで木津、難波で戦功をあげ、勇将として名をはす。
三木合戦で織田信長より羽柴秀吉の援軍として参戦。平田の付城を担当。
死没: 天正7年(1579)9月10日(旧暦)50歳
戒名:亮衛院殿月賛玄光大居士 位牌は金剛寺にある。 法名:浄善

上の写真が谷大膳の墓です。

上の写真は現地の説明いたで下記のように書かれています。(そのまま引用)
「谷大膳は豪将でならした人で、天正四年の石山の戦いで大手柄を立てたため、
秀吉方の武将として三木城攻めでは重要な平田の陣営をまかされていた。
天正七年九月九日夜半に兵糧を三木城へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢の夜襲
を受け、なぎなたをふるって奮闘したが、力及ばず戦死を遂げたのである。」

上の写真は昭和42年(1967)9月吉日 谷大膳の子孫の木下茂氏が立てた詳しい
説明板です。そのまま引用させていただきます。
「谷大膳亮衛好公、幼名小太郎享禄2年(1529)宇多源氏佐々木氏の末裔福田六兵衛尉正之
の次男として美濃国莚田群伊地良村に生る。
幼にして近江国甲賀群長野住豪族伯父谷衛之養はれ谷姓胃す。養父衛之浅井亮政に属し
佐和山の合戦に死す。公長野の地を継承せしも、後伊地良村住し斉藤道三、織田信長に仕ふ。
天正六年九月豊臣秀吉公に従ひ三木城攻略に参事平田大村の砦を守る。
攻防一年有余別所氏密使を毛利氏に送りひそかに糧食の補給を計る。天正七年九月九日夜半、
別所毛利の精鋭月明を利して大膳公の砦を急襲、補給の道を開かんとして激戦数刻に及ぶ。
大膳公身長八尺無双の大力なり、部下を督励し自ら大長刀をふるって奮戦せしも衆寡敵せず
身に五十余創をうけ壮烈なる戦死を遂ぐ。時に享年五十。九月十日黎明なりき。
秀吉公その死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木とし給ふ。
法号、亮衛院殿月賛玄光大居士、共に戦死せし兄福田正舜(玄々院殿)、弟土田小傅次、
甥福田彦八良(勇功院殿)同孫三郎(猷駿院殿)を併せ葬る。一族の位牌すべて大村金剛寺
にあり、公の嫡男衛友この戦に仇敵室小兵衛の首級をあげ父の恨を晴らせり。
秀吉公、父子の功を嘉彰し丹波山家に六千石を給ふ。徳川氏の治下に入るや加封され
一万六千石の大名となり明治にいたるまで歴世城主たり。
明治以後華族令により子爵に列せらる。現存する墓碑墓域は、公二百回忌を期して
九代孫衛秀の部下福田正親に命じて造営せしむる所、以てその忠節を偲び遺徳を後毘に
顕彰せんとの真情に出づ。公死して茲に百九十年公等一族の事蹟を更に闡明にすべく改めて
金石に刻して墓域を飾る。英魂子孫の彌栄をみそなはしめ給へ。」
系図の表示もありますが判りづらいので三木史談 38号(平成9年7月)Page36
渡邊大門氏が作製された系図を添付しておきます。



上の写真は谷大善亮衛好等一族の墓の全体遠景で。
右手(西側)より勇功院殿=甥の福田彦八良の墓、玄々院殿(兄の福田正舜)の墓、
谷大善亮衛好の墓、弟の土田小傅次の墓、猷駿院殿=甥の福田孫三良の墓
木下茂氏の説明板で福田孫三良は福田孫三郎となっているが墓標には孫三良と表記されて
いましたので福田孫三良としました。
猷駿院殿(福田孫三良)の墓標の裏面に文化6年(1809)9月に福田家の子孫の
福田太良左衛門正備が造立との記述もあった。
また、玄々院殿(兄の福田正舜)の墓の裏面には忠死の文字が見え三木合戦の様子が
書かれているようであるが完全な判読はできなかった。
勇功院殿の墓は風化が激しく墓石が割れた状態である。
三木方でこの平田大村の戦いで戦死した淡河弾正忠定範について書いた小生のBlogに
リンクしておきます。
淡河弾正忠定範戦死之碑 in 三木市八幡森史蹟公園 on 2013-4-8
谷大膳の最期について詳しく書かれていたBlogにもリンクをさせていただきました。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1778.html

上の写真は平田の付城跡(谷衛好の墓所)から三木城を臨んだ光景です。
写真紹介します。谷大膳の墓は、平田小学校の裏手にあります。
谷大膳の基本情報 Wikipedia他より引用
正式な名前:谷大善亮衛好(たにだいぜんのすけもりよし)又は谷衛好(たにもりよし)
生誕: 享禄2年(1529) 父:福田正之(谷野親衛の次男)、母:蒲生将監貞之の娘
養父:谷野太郎左衛門綱衛 兄:福田正舜 弟:土田小傳次
生誕地:美濃国席田郡伊地良村 幼名:小太郎
養父の谷野太郎左衛門綱衛の在所(近江国甲賀郡長野)で育った
主君: 斎藤道三→義龍→龍興 織田信長→羽柴秀吉
官位:大膳亮・大膳大夫
織田信長の家来として石山の戦いで木津、難波で戦功をあげ、勇将として名をはす。
三木合戦で織田信長より羽柴秀吉の援軍として参戦。平田の付城を担当。
死没: 天正7年(1579)9月10日(旧暦)50歳
戒名:亮衛院殿月賛玄光大居士 位牌は金剛寺にある。 法名:浄善

上の写真が谷大膳の墓です。

上の写真は現地の説明いたで下記のように書かれています。(そのまま引用)
「谷大膳は豪将でならした人で、天正四年の石山の戦いで大手柄を立てたため、
秀吉方の武将として三木城攻めでは重要な平田の陣営をまかされていた。
天正七年九月九日夜半に兵糧を三木城へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢の夜襲
を受け、なぎなたをふるって奮闘したが、力及ばず戦死を遂げたのである。」

上の写真は昭和42年(1967)9月吉日 谷大膳の子孫の木下茂氏が立てた詳しい
説明板です。そのまま引用させていただきます。
「谷大膳亮衛好公、幼名小太郎享禄2年(1529)宇多源氏佐々木氏の末裔福田六兵衛尉正之
の次男として美濃国莚田群伊地良村に生る。
幼にして近江国甲賀群長野住豪族伯父谷衛之養はれ谷姓胃す。養父衛之浅井亮政に属し
佐和山の合戦に死す。公長野の地を継承せしも、後伊地良村住し斉藤道三、織田信長に仕ふ。
天正六年九月豊臣秀吉公に従ひ三木城攻略に参事平田大村の砦を守る。
攻防一年有余別所氏密使を毛利氏に送りひそかに糧食の補給を計る。天正七年九月九日夜半、
別所毛利の精鋭月明を利して大膳公の砦を急襲、補給の道を開かんとして激戦数刻に及ぶ。
大膳公身長八尺無双の大力なり、部下を督励し自ら大長刀をふるって奮戦せしも衆寡敵せず
身に五十余創をうけ壮烈なる戦死を遂ぐ。時に享年五十。九月十日黎明なりき。
秀吉公その死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木とし給ふ。
法号、亮衛院殿月賛玄光大居士、共に戦死せし兄福田正舜(玄々院殿)、弟土田小傅次、
甥福田彦八良(勇功院殿)同孫三郎(猷駿院殿)を併せ葬る。一族の位牌すべて大村金剛寺
にあり、公の嫡男衛友この戦に仇敵室小兵衛の首級をあげ父の恨を晴らせり。
秀吉公、父子の功を嘉彰し丹波山家に六千石を給ふ。徳川氏の治下に入るや加封され
一万六千石の大名となり明治にいたるまで歴世城主たり。
明治以後華族令により子爵に列せらる。現存する墓碑墓域は、公二百回忌を期して
九代孫衛秀の部下福田正親に命じて造営せしむる所、以てその忠節を偲び遺徳を後毘に
顕彰せんとの真情に出づ。公死して茲に百九十年公等一族の事蹟を更に闡明にすべく改めて
金石に刻して墓域を飾る。英魂子孫の彌栄をみそなはしめ給へ。」
系図の表示もありますが判りづらいので三木史談 38号(平成9年7月)Page36
渡邊大門氏が作製された系図を添付しておきます。



上の写真は谷大善亮衛好等一族の墓の全体遠景で。
右手(西側)より勇功院殿=甥の福田彦八良の墓、玄々院殿(兄の福田正舜)の墓、
谷大善亮衛好の墓、弟の土田小傅次の墓、猷駿院殿=甥の福田孫三良の墓
木下茂氏の説明板で福田孫三良は福田孫三郎となっているが墓標には孫三良と表記されて
いましたので福田孫三良としました。
猷駿院殿(福田孫三良)の墓標の裏面に文化6年(1809)9月に福田家の子孫の
福田太良左衛門正備が造立との記述もあった。
また、玄々院殿(兄の福田正舜)の墓の裏面には忠死の文字が見え三木合戦の様子が
書かれているようであるが完全な判読はできなかった。
勇功院殿の墓は風化が激しく墓石が割れた状態である。
三木方でこの平田大村の戦いで戦死した淡河弾正忠定範について書いた小生のBlogに
リンクしておきます。
淡河弾正忠定範戦死之碑 in 三木市八幡森史蹟公園 on 2013-4-8
谷大膳の最期について詳しく書かれていたBlogにもリンクをさせていただきました。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1778.html

上の写真は平田の付城跡(谷衛好の墓所)から三木城を臨んだ光景です。
by seiyo39
| 2013-05-20 06:43
| 神戸以外の兵庫県
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