志染(しじみ)の石室(いわむろ) on 2013-4-14 |
紹介します。 撮影:2013-4-14
志染の石室は5世紀後半の飛鳥時代に顕宗天皇 23代 在位:485–487と
仁賢天皇 24代 在位:488-498の兄弟が幼少の頃、政変の難を逃れ隠れていた
石室といわれています。
また、湧水がひかり藻により色を変え金色に光ることから「窟屋(いわや)の金水
(きんすい)」と呼ばれています。
上の写真は窟屋の金水(志染の石室)まで100mの看板、下側の石碑には
「志染の石室道」と書かれています。
近くの見所として伽耶院、千体地蔵、御坂サイフォン、淡河川疎水などが表示
されています。上記以外にどっこいさん(六地蔵)、御坂神社などもあります。
標識の方向に少し入ったところに上の写真のような石碑があります。
「温故知新 日下部達 意美(くさかべのむらじ おみ)聖徳碑」と書かれています。
第20代の安康天皇が亡くなったあと、第21代のと皇位をめぐる争いが起こり、
この争いで雄略天皇に殺されようとした市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)の二人の
王子、億計(オケ)王子と弘計(ヲケ)王子は播磨の有力者志自牟細目(しじみのいとみ)
のところに身を隠すことになります。
都を逃れた2人の王子は日下部達意美(使主)とその子供の吾田彦(あたひこ)及び
数人に従者に守られ丹波の真名井郷(まないのさと)の余謝(よさ)まで逃げてきたが
雄略天皇の追手がこの地まで探りにきましたので、山直を通って播磨の地、大殿林
(三木市口吉川町大島)の岩崎入道のいるところまで逃げて、2王子は谷に住みました。
ここでも長く住めず、1つ山を越した原野(細川町)の地を経てさらに山を越え縮見(しじみ)
の窟屋(いわや)のある村まで来てようやく落ち着くことができました。
この地で志自牟細目の下男として住むこととなります。
2王子は身分が明らかになることを恐れ、唖(言葉が不自由なこと)の
ふりをして、馬や牛の世話、火焚き、水汲み、秣かりなど炎暑酷冷をいとわず働いた。
2王子を護ってきた日下部達意美(使主)はこのような大役を果たしたが、2王子を召使
として身を隠したことを詫び首吊り自殺をしてしまいました。この意美(おみ)の功績
を称え聖徳碑が建てられました。
上の写真は上記の聖徳碑を少しすぎた場所にあった「うすずみ桜想会」作製の
説明板です。
さらに進むと開けた景色になり上の写真のような建物群が見えてきます。
三木総合防災公園(三木震災記念公園)の整備、開発に合わせて2005年5月、
建物群(休憩用のあずまや、ほこら、御堂)と窟屋の金水・志染の石室が整備された。
ここに上の3枚の写真のような説明板が設置されていました。
上の写真が窟屋の金水(志染の石室)です。当日(2013-4-14)9:44の状態で
光が当たったところがひかり藻の作用で金色に光っています。
三木市のHPでひかり藻の解説がありましたので引用紹介します。
ひかり藻
淡水産の単細胞藻類で、体長は3~6ミクロン。日の当たりにくい山中の池や洞くつ内の
水たまりなどに発生する。大量発生して水面に浮き上がると、葉緑体やカロチノイド
という成分が日光に反射、水面を緑や黄色にするのが金水の仕組みとされる。
上の写真は志染の石室の遠景です。
上の写真は整備された観音堂です。
明石郡観音霊場第30番 志染の石室(金水)に指定されており本尊は十一面観世音菩薩
御詠歌は「かのきしの みいけの ほとりたづぬれば いふに いわやの こころざるけき」
貞観6年(864)の春、書写山に来た法道仙人が比叡山の智證(ちしょう)大師を招いて
この地を視察、この地が聖地であることを知り十一面観音をつくって安置したのが
観音堂の起源。
上の写真は観音堂の右手の7体×2列の石仏です。
後方は、館林藩(群馬県)の藩主松平武元(たけちか)が延享年間(1744-1747)に
この地の郡代奉行の伊藤賀左衛門らに命じて作らせたものです。
手前の七体の石仏は最近(2005年か?)整備されたもの。
うえの写真は観音堂の左ての石仏(15体)
神戸市西区押部谷町木津に顕宗仁賢神社がああります。
以前に書いた小生のBlogにリンクしておきます。
神戸市西区押部谷町木津の顕宗仁賢神社 on 2011-5-9
旧明石郡には顕宗天皇、仁賢天皇に関係する史蹟が多数あります。
旧塩屋村 若宮神社
顕宗天皇・仁賢天皇・安閉天皇が御祭神
小野市高田の顕王神社も御祭神として顕宗天皇・仁賢天皇が祀られています。
神戸市西区にも多数あるとおもいますが省略させていただきます。