時の記念日 in 明石市立天文科学館 on 2013-6-10 |
であったので行ってきました。

無料な上に上の写真のような子午線(Meridian)通過記念証までいただきました。
こちらの裏側に「日本標準時」と「時の記念日」の由来が書かれていましたので
その内容を補足して書きます。
1.日本標準時
明治17年(1884)にワシントンで開催された国際子午線会議でイギリスの
グリニッジ天文台を通る子午線がグリニッジ標準時(世界時)と定められました。
日本では明治21年(1888)1月1日より東経135度子午線の時刻を「日本標準時」
として使用されるようになった。

上の写真は明石市立天文科学館に展示されていたもので経度が5度違うと約20分の
ズレがあるのですがそれを日本全国一律に標準時で管理運用されています。
東京都の猪瀬知事が提唱されているように標準時刻を3時間ほど早めて東京の株式市場が
世界で一番早くに開く株式市場にしたいとのこと。
明石にとっては大打撃になると思いますが反論の声があまり聞こえてこないのは
明石市の情報発信力が弱いと言わざるを得ません。この点は橋下市長のしたたかさを
見習うべきだと思います。
2.時の記念日
日本書記に、斉明天皇6年(660)中大兄皇子(後の天智天皇)が初めて漏刻(ろうこく)
(水時計)を作って時を告げ、天智天皇10年(671)4月25日(現行暦の6月10日)に
漏刻を新天文台に据え、鐘や鼓で時を知らせた、と書かれているのに因んで制定
されました。
天智天皇を祀る大津の近江神宮では、毎年6月10日、時の記念日に漏刻祭が行われている。
昭和56年(1981)、奈良県明日香村の水落(みぞおち)遺跡で発見された遺構が、
天智天皇が初めて作ったと記されている漏刻台の跡であることが明らかにされた。
遺構の形状から、台形の盛土の上に楼状の建物を建て、木樋と銅の配水管で水量を調節し、
時を知らせる仕組みが作られていたと推測されている。

上の写真は上述の水落遺跡の遺構(漏刻台跡)発掘現場と解説である。
写真出典:詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008) Page40

上の写真は漏刻(ろうこく)の復元模型である。
写真出典:詳説日本史図録 第2版 山川出版社(2008) Page40
Wikipediaによる水落遺跡の解説も添付しておきます。
「飛鳥盆地の中央部、飛鳥川東岸に位置し、東南には飛鳥寺がある。
1972年に民家建設のための事前調査の際に遺跡が確認され、1981年以降から
本格的な調査が実施された。その結果、建物の規模や性格が明らかになり、
この場所が『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条
に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。
また、この地は位置的に若い頃の天智天皇(中大兄皇子)が打毬の際に中臣鎌足と
出会った(→乙巳の変)とされる「飛鳥寺西の槻樹」の一郭であったとする説もある。
発掘された遺構は楼状建物跡とそれに付随する水利用の施設、4棟以上はあったと
推測される掘立柱建物跡及び掘立柱塀跡などからなる。楼状建物は土を盛り上げ貼石を
した基壇上に建つ4間(約11m)四方[1]の正方形平面で、中央部を除いて合計24本の
柱を立てる総柱様建物である。礎石は基壇の地中1m下に据えられ、そこに空けられた
径40cmの円形刳り込みに柱をはめ、更に各礎石間に石製の地中梁を巡らし、
基壇土で周りを固めている。一方、建物中央部の基壇下1mには花崗岩切石を台石にして
1.65m・0.85mの黒漆塗の木箱が置かれていた痕跡があり、基壇内には木樋や桝、
木樋から上方に取り付けられたラッパ状のごく細い銅管などが設置されていた。
基壇の下には東から建物中央部に向かって木樋暗渠があったことが知られ、木箱の
西側にも流入した水を流すための別の銅管の設置も確認されている。
こうした発掘成果により、木樋から導入された水をラッパ状の銅管を使って上方高く
吸い上げ、最終的に黒漆塗の木箱に流し込む構造であったと推定されている。」
明石市立天文科学館の展望台から観た明石周辺の景観を添付して今回の投稿を
締めくくります。

上の写真は明石海峡大橋と淡路島を臨む景観です。

上の写真は月照寺と柿本神社。江戸時代は神仏習合で一体の施設でした。

上の写真は明石市立文化博物館、明石城を中心とした景観。

上の写真は兵庫県立図書館と明石市立図書館に向けて撮った景観。

















