鈴木商店所縁の人達のお墓 in 追谷墓地 on 2013-6-24 |
所縁の人達のお墓の写真を撮ってきましたので紹介します。
追谷墓地の14区にあります。

上の写真は鈴木商店当主の鈴木岩治郎が健在であった明治20年(1887)7月に
建立した鈴木一族之墓の遠景で辰巳屋の辰の字も刻まれています。
墓碑の裏側に兵庫県平民と書いてあったのは当時の風潮を物語るものとして
印象に残っています。
鈴木岩治郎は天保8年7月17日新暦に換算すると1837年8月17日武蔵国川越の足軽の
次男として生まれる。明治27年(1894)6月16日寂。

上の写真は当主鈴木岩治郎と鈴木よねの五輪塔で戒名が刻まれています。
遠景の写真の左手にあります。五輪塔に刻まれていた戒名。
鈴木岩治郎の戒名:寂静院 釈 弘誓? 字を判読できず間違っているかも
鈴木よねの戒名 :寂光院 釈尼 ■ ■ 字を判読できず
このサイトを訪問した方で解っている方がおられたらご教示をお願いします。

上の写真の手前は金子直吉とともに鈴木商店の大番頭であった柳田富士松
慶応3年(1867)~昭和3年(1928)の墓で為柳田家先祖菩提と刻まれています。
柳田富士松の長男は義一、孫は辰巳の名前がつけられています。
後方は西川文蔵の墓。

上の写真は西川文蔵の墓。
大正9(1920)、金子直吉の後継者として期待されていた西川文蔵は鈴木商店の
仕事に追われ過労が重なりわずか46歳で急逝した。
東京高商中退で鈴木商店学卒第1号である。
エピソードとして鈴木商店で洋服着用した初めての人として知られる。
明治37年(1904)4月のある日、突然彼は鈴木商店の掟を破り英国仕立ての三つ揃えを
なんなく着こなして店に現れたことで有名。
鈴木商店でも大正7年(1918)にはほぼ全員が洋服となっている。
鈴木商店では樟脳部門で金子直吉を補佐して支配人として活躍した。
金子直吉からの信認も厚く直吉の長男に文蔵という名前をつけたほどである。

上の写真は西川文蔵の妻、西川文子の墓である。
大正13年(1924)1月3日に篠原辰次郎が墓碑の字を書いたと書かれていました。

上の写真は鈴木商店大番頭金子直吉のお墓です。
墓碑には正六位 勲四等 金子直吉之墓と刻まれています。
昭和19年(1944)2月27日寂。
隣には奥様の金子徳の墓(昭和19年(1944)10月25日寂)があります。
金子直吉氏の年譜について平成25年3月16日(土)海洋博物館で行われた知育講座の
神木哲男先生の講演から引用(一部加筆)させていただきます。
金子直吉(赤字が加筆した部分です)
・1866(慶應 2)年:6月13日、高知県吾川郡名野川村に、父甚七、母タミの長男
として生まれる
・1871(明治 4)年:高知に移り住む
・1877(明治10)年:長尾砂糖店の丁稚となる
・1880(明治13)年:質商傍士久万次の店に雇われ、のち番頭となる
(質屋を廃業、砂糖商となる)
・1886(明治19)年:神戸に出て鈴木商店に雇われる
・1894(明治27)年:岩治郎急逝。よね(43歳)、経営存続を決定、
よね=大番頭金子直吉体制で再出発
・1896(明治29)年:台湾樟脳の旗売り=先物売りで失敗、のち台湾の開発に専心
・1900(明治33)年:傍士亀寿の妹・徳子(21歳)と結婚
・1901(明治34)年:長男・文蔵生まれる
・1902(明治35)年:鈴木商店、合名会社(代表・鈴木よね、資本金50万円)となり、
責任社員となる
出資金:鈴木よね(2代目鈴木岩治郎)48万円、金子直吉1万円
柳田富士松1万円
・1905(明治38)年:次男・武蔵生まれる(西田幾多郎の女婿、文学博士・東京大学教授)
・1911(明治44)年:三男猪一生まれる
・1917(大正 6)年:ロンドン駐在高畑誠一宛に「天下三分の宣言書」を発する
当時の鈴木商店の貿易年商は15億4000万円で三井の10億9500万円を抜いていた
・1918(大正 7)年:日米船鉄交換契約を実現に導く、米騒動起こり、鈴木商店焼き打ち
にあう(8月12日)
・1919(大正8)年:鈴木よねが栄町の旧宅から須磨区東須磨の邸宅に移った。
・1921(大正10)年:この頃より、鈴木の経営・財政状態悪化
・1927(昭和 2)年:鈴木倒産(4月2日)
・1935(昭和10)年:鈴木商店旧部下たちが、醵金し、武庫郡御影町掛田
(東灘区御影中町)に家を購入、金子に提供、
・1944(昭和19)年:死去(2月27日午前2時20分、享年79歳)、妻・徳子死去
(10月、享年66歳)
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