2013年 06月 30日
鈴木よねの旧本宅跡 on 2013-6-24 |
鈴木よねの旧本宅を紹介したサイトはすでに下記の2つがありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/wdwwq181/45879768.html
http://kobeport.exblog.jp/14996732/
2013年6月24日、これらのサイトを観て須磨若木町(旧名:下兼広町)の鈴木よねの旧本宅跡
の写真を撮ってきましたので紹介します。

上の写真は須磨高校の跡地がサンユー都市開発によって一戸建て住宅を開発中で
販売のために作製されたリーフレットの航空写真をコピー利用させていただいたもので
約4千坪(1万2千㎡)あった鈴木よねの旧本宅は目立つ御殿であったであろうと
想像できます。
鈴木よねの旧本宅には大正8年(1989)、栄町にあった住宅から移り住んだ。
須磨区が神戸市に編入されたのは大正9年のことで当時は須磨町であった。
後藤新平などの政府の大物たちも神戸を通る際には御殿を表敬訪問したそうです。
2代目岩次郎を従えた鈴木よねは表敬訪問した政府高官を玄関まで見送るが、車までは
送らなかったという逸話が残されています。

上の写真は三菱重工業(株)神戸造船所山畑社宅の敷地内の案内図です。
現在の住所は神戸市須磨区若木町2丁目8他です。
こちらがかっての鈴木よね本宅の敷地であった場所です。


上の2枚の写真はかって鈴木よね本宅の勝手口に通じていたトンネルの跡です。
本宅跡のなごこりを残す唯一?の遺構だと思われます。

すいません、多分鈴木よね本宅時代の遺構と思われるものがもう一つあります。
上の写真の地蔵尊です。
良妻賢母であった鈴木よねさんは長男徳次郎(後に2代目岩治郎)、次男米蔵(7歳で他界)
三男 岩蔵への愛情をこめて地蔵尊を建立したのであろうか?
鈴木よねの略歴(2013-3-16神戸海洋博物館での知育講座で神木哲男先生作製)を添付。
・1852(嘉永 5)年:播磨国姫路米田町、塗師丹波屋・西田仲右衛門の三女として
生まれる(8月15日)
・1877(明治10)年:鈴木岩治郎に嫁す
・1878(明治11)年:長男・徳治郎(のち岩治郎と改称)生まれる
・1881(明治14)年:次男・米太郎生まれる
・1884(明治17)年:三男・岩蔵生まれる
・1894(明治27)年:夫・岩治郎死去、長男・岩治郎、家督を相続し、
兄・西田仲右衛門を後見人と定め、先代の事業を継続する、みずから店主となる
・1902(明治35)年:鈴木商店を合名会社(出資額50万円)とし、代表社員となる
(出資額48万円)、金子・柳田(各1万円)
・1915(大正 4)年:緑綬褒賞を受ける
・1920(大正 9)年:紺綬褒章を受ける
・1923(大正12)年:鈴木合名会社、組織変更、貿易部門を分離、株式会社鈴木商店
(社長鈴木 よね)とし、鈴木合名会社は持株会社として存続(代表社員 鈴木よね)
・1926(昭和 1)年:フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を受ける
・1938(昭和13)年:死去(5月6日)、享年87歳
http://blogs.yahoo.co.jp/wdwwq181/45879768.html
http://kobeport.exblog.jp/14996732/
2013年6月24日、これらのサイトを観て須磨若木町(旧名:下兼広町)の鈴木よねの旧本宅跡
の写真を撮ってきましたので紹介します。

上の写真は須磨高校の跡地がサンユー都市開発によって一戸建て住宅を開発中で
販売のために作製されたリーフレットの航空写真をコピー利用させていただいたもので
約4千坪(1万2千㎡)あった鈴木よねの旧本宅は目立つ御殿であったであろうと
想像できます。
鈴木よねの旧本宅には大正8年(1989)、栄町にあった住宅から移り住んだ。
須磨区が神戸市に編入されたのは大正9年のことで当時は須磨町であった。
後藤新平などの政府の大物たちも神戸を通る際には御殿を表敬訪問したそうです。
2代目岩次郎を従えた鈴木よねは表敬訪問した政府高官を玄関まで見送るが、車までは
送らなかったという逸話が残されています。

上の写真は三菱重工業(株)神戸造船所山畑社宅の敷地内の案内図です。
現在の住所は神戸市須磨区若木町2丁目8他です。
こちらがかっての鈴木よね本宅の敷地であった場所です。


上の2枚の写真はかって鈴木よね本宅の勝手口に通じていたトンネルの跡です。
本宅跡のなごこりを残す唯一?の遺構だと思われます。

すいません、多分鈴木よね本宅時代の遺構と思われるものがもう一つあります。
上の写真の地蔵尊です。
良妻賢母であった鈴木よねさんは長男徳次郎(後に2代目岩治郎)、次男米蔵(7歳で他界)
三男 岩蔵への愛情をこめて地蔵尊を建立したのであろうか?
鈴木よねの略歴(2013-3-16神戸海洋博物館での知育講座で神木哲男先生作製)を添付。
・1852(嘉永 5)年:播磨国姫路米田町、塗師丹波屋・西田仲右衛門の三女として
生まれる(8月15日)
・1877(明治10)年:鈴木岩治郎に嫁す
・1878(明治11)年:長男・徳治郎(のち岩治郎と改称)生まれる
・1881(明治14)年:次男・米太郎生まれる
・1884(明治17)年:三男・岩蔵生まれる
・1894(明治27)年:夫・岩治郎死去、長男・岩治郎、家督を相続し、
兄・西田仲右衛門を後見人と定め、先代の事業を継続する、みずから店主となる
・1902(明治35)年:鈴木商店を合名会社(出資額50万円)とし、代表社員となる
(出資額48万円)、金子・柳田(各1万円)
・1915(大正 4)年:緑綬褒賞を受ける
・1920(大正 9)年:紺綬褒章を受ける
・1923(大正12)年:鈴木合名会社、組織変更、貿易部門を分離、株式会社鈴木商店
(社長鈴木 よね)とし、鈴木合名会社は持株会社として存続(代表社員 鈴木よね)
・1926(昭和 1)年:フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を受ける
・1938(昭和13)年:死去(5月6日)、享年87歳
by seiyo39
| 2013-06-30 08:01
| 神戸情報
|
Comments(3)
初めてコメント差し上げます。
実は先日、神戸トピックスさんの、鈴木家本宅に関する記事 http://kobeport.exblog.jp/14996732/ を拝見し、こちらに最新の記事と写真があることを知って駆けつけました。
少年時代にそこで遊んだ経験があったので懐かしいです。詳しい体験談などを神戸トピックスさんのほうにコメントさせていただきましたので、よろしければご笑覧ください(汗)
最後の写真の地蔵さんは気が付きませんでしたね・・・いったいどの辺にあったのでしょうか?
実は先日、神戸トピックスさんの、鈴木家本宅に関する記事 http://kobeport.exblog.jp/14996732/ を拝見し、こちらに最新の記事と写真があることを知って駆けつけました。
少年時代にそこで遊んだ経験があったので懐かしいです。詳しい体験談などを神戸トピックスさんのほうにコメントさせていただきましたので、よろしければご笑覧ください(汗)
最後の写真の地蔵さんは気が付きませんでしたね・・・いったいどの辺にあったのでしょうか?
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Cedo 様へ
コメントありがとうございました。 お地蔵の位置は詳しくは三菱重工の社宅の地図にあるのですが勝手口の出口付近にあります。今後ともよろしくお願い申し上げます
コメントありがとうございました。 お地蔵の位置は詳しくは三菱重工の社宅の地図にあるのですが勝手口の出口付近にあります。今後ともよろしくお願い申し上げます
お返事ありがとうございました。
ぜひ近いうちに、時間を見つけてゆっくり探索してみたいものです。
ぜひ近いうちに、時間を見つけてゆっくり探索してみたいものです。

















