仏教伝来の碑 in 奈良県桜井市金屋 on 2013-7-20 |
ので紹介します。
当日は13:30から桜井市立文化財センターで開催された発掘調査報告会に出席のため
桜井市に来ていました。
仏教伝来について過去に2つのテーマで書いています。
(1)仏教伝来のルート
上座部仏教と大乗仏教の伝播経路
(2)仏教伝来の概略説明
仏教伝来
参考として
聖徳太子創建七ケ寺の1つである橘寺(創建606年)
前置きが長くなりましたが仏教伝来の碑の写真紹介に写ります。
上の写真は仏教伝来の碑に向かうために大和川(初瀬川)にかかる馬井手橋を渡ります。
上の写真は大和川の上流の景色です。馬井手橋より撮影。
河原には桜井市が設置した馬の模型が9体並んでいます。
これは小野妹子が伴なって難波津から上ってきた隋から使者、裴世清を迎えた
75匹の馬をモチーフしたものです。歴史学者などが形状などにクレームがつき別に
大きなモチーフも造立したようです。
上記の時期は推古天皇十六年(608)です。
上の写真は大和川の下流の景色です。馬井手橋より撮影。
左手の河原には後述の遣隋使を迎えたとくの様子を描いたタイル画があります。
上の写真は仏教伝来の碑の横の説明板です。読みづらいので引用転記させていただきます。
一部加筆あり。
仏教伝来の地
ここ泊瀬川畔一帯は,磯城瑞籬宮,磯城嶋金刺宮をはじめ最古の交易の市・
海柘榴市(つばいち)などの史跡を残し,「しきしまの大和」と呼ばれる
古代大和朝廷の中心地でありました。
そしてこの付近は,難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で,大和朝廷と
交渉をもつ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
「欽明天皇の十三年冬十月,百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して
釈迦仏金銅像一躯,幡蓋若干,経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の
百済の施設もこの港に上陸し,すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。
この場所は,仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。
また「推古天皇十六年(608),遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の
京に入るとき,飾り馬七十五頭を遣して海柘榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」
と記されているのもこの地でありました。
私たちはこの地の歴史的由緒と,優れた日本文化を生み出す源流となった仏教伝来の
文化史的意義を,広く永く後世にとどめるため,ここに顕彰碑を建立しました。
平成九年七月吉日
日本文化の源流桜井を展く会
ここより東南約三百メートル(水道局前庭)に磯城嶋金刺宮趾があり,
宮趾の碑(保田與重郎書)と仏教公傳の文学碑が建てられている。
百済の聖明王からの仏像と経典献上の年について、
奈良時代の政府が刊行した「日本書紀」には欽明天皇13年(552)
となっていますが、「上宮聖徳法王帝説」や
「元興寺縁起」の資料により宣化天皇3年(538年)説が有力で教科書
にもこの年号が書かれています。
上記の説明書きの書き方では552年説として書かれています。
また、仏教伝来は仏教公伝という言葉で統一されたようです。
上の写真が仏教伝来の碑です。
上の写真は608年に隋からの使者が遣隋使の小野妹子とともに難波津から小舟に乗り換えて
大和川をのぼり大和朝廷に向かうところを表現したタイル画です。
碑のある周辺は最古の市場、海石榴市(つばいち)があり、
万葉集には海柘榴市に関する歌として3首が載っています。
海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(2963)
紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(3115)
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(3116)