JR御着駅周辺散策記 その1 御着城跡 on 2013-7-27 |
芦屋市教育委員会の竹村忠洋氏の講演「摂津国の考古学」を聞くために出かけた。
午前中時間があったので少し足を伸ばし姫路駅の1つ前の御着駅周辺を散策することに
しました。本日はシリーズの第1回で御着城跡を写真紹介します。
御着城の基本情報
住所:姫路市御国野町御着
駐車場:御着城址公園の無料駐車場
築城年:永正16年(1519)
主な城主:小寺政隆、小寺則職、小寺政職
まず現地の御着城跡の位置を理解していただくためにJR御着駅の北側の「古代ロマンと文化財
をたずねて姫路風土記の里めぐり」と称した地図看板から御着城跡付近を切り取った
地図(下の写真)を添付します。御着城跡は国道2号線に面してあります。

御着城跡は御着城跡公園として整備されており、公園の北側にはお城の形をした
御国野公民館と姫路市役所東出張所が建てられています。
また黒田官兵衛の顕彰碑も建てられています。
御着駅から歩いていくとあちこちに2014年NHK大河ドラマ「軍師 黒田官兵衛」の旗が
建てられており熱気と盛り上がりの高さを伺えます。


上の写真は御着城跡公園と上述のにはお城の形をした御国野公民館(右半分)と
姫路市東出張所(左半分)の建物です。

上の写真は黒田官兵衛顕彰碑です。
姫路市教育委員会の説明書きをそのまま引用させていただきます。
黒田家は「寛政重修諸家譜」などによれば近江国伊香郡黒田村(現滋賀県長浜市木之本町)
の出身とされます。
重隆の代に播磨に入り、御着城の城主「小寺政織」に仕えました。
御着城は永正16年(1519)に築城されたと伝わりますが、明応4年(1495)に
小寺氏は御着城納所で段銭を徴収しており、15世紀末には既にこの地を拠点として
いました。羽柴秀吉による播磨侵攻で御着城は天正7年(1579)に陥落しました。
黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・九州征伐などで軍師として
活躍し、天正15年(1587)に中津城(現・大分県中津市)を与えられました。
孝高の嫡男長政は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で筑前52万3千石を
与えられ福岡城(現・福岡県福岡市)に移りました。
この地は、かっての御着城本丸跡に位置し、黒田官兵衛孝高の祖父重隆と父職高の妻
(孝高の母)を祀った黒田家廊所(姫路市指定史跡)があります。
また南側には小寺三代城主を祀った小寺大明神があります。
平成21年4月 姫路市教育委員会

上の写真は上述した御国野公民館、姫路市東出張所の建物前の記念撮影用パネルです。

上の写真は御着城跡公園の東側に設置されている御着城址の石碑です。
石碑の近くに説明板がありましたのでその写真を添付しておきます。

上の写真が説明板で下記のように書かれています。
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。
永正一六年(一五一九)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され天正六年(一五七八)
か七年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(一四四一~四四)には
すでに構居が設けられていたとされ、明応年間(一四九二~一五○一)には赤松氏の
播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していた。 昭和五二~五四年
の発掘調査で、御着城が一四世紀後半から一六世紀後半まで存続し、一六世紀半ばに
大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた事が判明。中世の人びとの生活に
深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。 宝暦五年(一七五五)
の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は
天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、
惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、
本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。
平成一三年三月 姫路市教育委員会


上の2枚の写真は同じく現地の説明板に書かれている説明図です。

上の写真は御国野公民館の2階にあがる階段に掲示されていた御着城の図です。
北側が左手になっていますので注意が必要です。
チョイ悪オヤジの素人農業徒然日誌のブログで目薬の木について紹介されています。私の訪問時に気が付きませんでしたのでリンクさせていただきます。
http://mic126063.exblog.jp/21296262/
ひょうごツーリズム協会作成の御着城(姫路市)へのリンク
http://www.hyogo-tourism.jp/shirotabi/100castles/areas/detail.php?pageid=27&page=1

















