新島襄と新島八重のお墓 in 若王子山墓地(同志社共同墓地) on 2013-5-15 |
墓参しましたので写真にて紹介します。
若王子山墓地(同志社共同墓地)の基本情報
住所:京都市左京区鹿ケ谷若王子山町 TEL(問い合わせ先): 075-771-2204
アクセス:市バス停東天王町下車 徒歩若王子神社から25分
公式HP:http://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/graveyard.html
八重の墓が、若王子山山頂の同志社墓地にあり、同志社の名を発案した
八重の兄・覚馬の墓も同じ墓地に眠る。
NHK大河も前半の山場「戊辰戦争の東北での激戦会津戦争でスペンサー銃で奮戦した
幕末のジャンヌダルクこと新島八重」が終了し、明治4年(1871)10月新島八重の
兄、山本覚馬のいる京都三条木屋町へ母佐久と山本覚馬の正妻うらとの子みねを
伴なって9年ぶりに再会する場面で8月4日(日)は終了しています。8月4日の放送では
3人を三条木屋町の山本覚馬邸で迎える山本覚馬の妾で谷村美月が演じる小田時栄の
姿と新島八重を演じる綾瀬はるかの表情が印象に残った。
明治4年(1871)時点での上記の方々の年齢を記載しておきます。
山本覚馬:44歳
小田時栄:18歳
山本佐久:62歳 文化6年(1809)~ 明治29年(1896)
新島八重:26歳 弘化2年11月3日(1845年12月1日)~ 昭和7年(1932年)6月14日
山本峰(みね):9歳 文久2年(1862)~明治20年(1887)山本覚馬の二女
明治14年 伊勢時雄(1857-1927)家に嫁ぐ
伊勢時雄は今治教会牧師として赴任
みねと時雄の間に長女 悦子(明治17年7月生まれ)を生む
明治19年(1886)2月伊勢時雄が同志社英学校神学部教授となった
機会に京都荒神口に移り住む。4月には時雄の母・つせ(1831-1894)
らも上洛。
前段が長くなりましたが新島襄と新島八重のお墓の写真の話題に移ります。
上の写真が新島襄のお墓です。
上の写真は新島襄先生の墓碑について説明をしたものです。
碑銘は勝海舟による。勝海舟(文政6年(1823)-明治32年(1899))は
江戸・赤坂田町の私塾で蘭学と西洋軍学を教えていた時、遊学中の山本覚馬を
指導し多大な影響を与えた。
勝海舟の業績で最大のものは西郷隆盛との談判で明治新政府の江戸城総攻撃を防ぎ
江戸城を無血開場(1868年4月)を決め江戸の住人を戦渦より救ったことです。
また正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗上野介が伊井大老の命令で
日米修好通商条約(岩瀬とハリス)の批准書の持参に際し1860年(万延元年
1月22日~9月28日)
に77人のチームでアメリカの準備したポーハタン号とともに咸臨丸の艦長として
練習航海しサンフランシスコ、ワシントン、ボルチモア、フィラデルフィア、
ニューヨーク、喜望峰経由でインド洋、バタビア、香港と世界一周をしたことが
海舟の世界を広げた。
この時福沢諭吉、ジョン万次郎も乗船していた。
批准書は第15代ブカナン大統領にワシントンで手渡された。
以上は小生のBloghttp://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/e29be7a7281dae96f3377cdad14c359dより引用。
明治維新後、帰国した新島襄に学校設立をアドバイス。山本覚馬と新島襄を引き合わせた
のは二人の師である勝海舟だとの説もあるそうです。
通説では新島襄が大阪でキリスト経主義の学校を設立しようとしたが、大阪府知事の
反対でうまくいかず、木戸孝允の紹介で京都の槇村正直知事に会うために明治8年(1875)
4月5日京都に入り24日まで滞在。その間に「天道遡源」を読んでいたので、直ちに賛同
して新島襄にキリスト教主義の学校を京都に設立することを勧め、協力を申し出た。
新島襄は一旦大阪に戻り、6月10日再び京都を訪れ、山本覚馬から旧薩摩藩屋敷跡地の
5,800坪の土地を550ドルで譲ってもらい、山本覚馬の家に同居しながら、学校設立の
準備を進めた。
上の写真は新島八重の墓の墓碑である。
碑銘「新嶋八重之墓」(原文のまま)は徳富蘇峰による書である。
上の2枚の写真は新島八重の墓の前のパネルで新島八重が終生、会津のことが脳裏
から離れることはなかったようです。
上の写真は同志社共同墓地の配置の説明図です。
上の写真は新島襄の父親の新島民治と母親の新島登美(とみ)の墓碑です。
新島襄の両親の左手には3番目の姉の美代さんの墓があります。
上の写真は徳富蘇峰の墓です。
上の写真は新島八重の両親の山本権八と佐久そして新島八重の弟の山本三郎の墓碑です。
山本三郎は戊辰正月五日、京都伏見鳥羽の戦いで負傷しその傷がもとで、江戸にて没
上の写真は新島八重の兄、山本覚馬の墓です。
山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま、文政11年1月11日(1828年2月25日)~
明治25年(1892年)12月28日)は、江戸時代末期の会津藩士、砲術家。
慶応4年(1868)には建白書「管見」を書き始めた明治2年(1869)薩摩藩から釈放
され、提出した「管見」が新政府に評価され京都府顧問となり、地方官・政治家として
初代京都府知事槇村正直にも重用され京都府政を指導した。また、同志社英学校
(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の
敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。
「同志社」の名は、山本の発案という。京都府顧問を勤め明治10年(1877)12月、
京都府庁の職を免ぜられたが明治13年(1880)3月初代府会議長となった。
明治23年(1890)1月新島襄の死去により同志社の臨時総長となり明治25年3月
まで勤めた。
管見についてWikipediaによる解説をそのまま引用させていただきます。
『管見』(かんけん)は、慶応4年(1868年)6月、覚馬が新政府に宛てて出した
(御役所宛てとなっている)、政治、経済、教育等22項目にわたり将来の日本の
あるべき姿を論じた建白書である。自分の見解(管見)と謙称している。
思想家・横井小楠が富国・強兵・士道(経済、国防、道徳)の確立を唱えた
「国是三論」に酷似しているが、さらに発展させている。三権分立の「政体」に
始まり、大院・小院の二院制の「議事院」、「学校」、「変制」、封建制から郡県制
への移行や世襲制の廃止、税制改革まで唱えた「国体」、「建国術」、「製鉄法」、
「貨幣」、「衣食」、女子教育を勧めた「女学」、遺産の平均分与の「平均法」、
「醸造法」、「条約」、「軍艦国体」、「港制」、「救民」、「髪制」、寺の学校への
開放を唱えた「変仏法」、「商律」、「時法」、太陽暦の採用を勧めた「暦法」、
西洋医の登用を訴えた「官医」と内容は多岐にわたり、将来を見据え優れた先見性に
富んでおり、明治新政府の政策の骨格とも繋がる。
上の写真は山本覚馬と小田時栄との間に生まれた山本家の三女、山本久栄の墓です。
山本久栄は新島八重、母佐久、姪のみねと3人で兄覚馬の家で世話になることになった
明治4年に生まれています。山本久栄(1871-1893)
山本久栄は同志社女学校、神戸英和女学校(現:神戸女学院)で学んでいます。
同志社女学校3年のとき(明治18年(1885)6月21日)ラーネッド邸第一公会で
市原盛宏(1858-1915)から洗礼を受けています。
徳富蘆花の小説「黒い眼と茶色の目」に描かれた「茶色の目」事件のヒロインで
明治26年(1893)で若死にしています。
徳富健次郎(蘆花)(1868-1927)と山本久栄の出会いは明治19年(1886)9月
蘆花が同志社英学校3年に編入してからである。
山本久栄の母時栄(1853-?)は明治19年(1886)2月12日に山本覚馬と離婚
その関係で若王子山墓地(同志社共同墓地)に墓碑がない。
上の写真は松本五平(1830-1843)の墓です。
大正3年11月 校友有志一同とも刻まれています。
松本五平は信州の出身で、鶴岡藩の家老・堀家に仕え、草履取りをしていたが、
居貞一の紹介により、1879年(明治12年)から同志社で賄方として働き始め、
その後、小使(用務員)となった。
松本五平の仕事ぶりは真面目だったが、松本五平は英語が喋れないのに、英語だと
言って、訳の分からない言葉で演説の真似事をするような変わり者だったため、
生徒から「五平」と呼び捨てにされ、馬鹿にされていた。
また、松本五平は小柄で身長が120cm程度しかなかったため、「エスキモー」と
呼ばれて生徒にからかわれていた。
しかし、誰にでも平等に接する新島襄は、松本五平に対しても「五平さん、用事を
お願いします」と丁寧に用事を頼んでいた。
用務員の松本五平を「さん」付けで呼ぶのは新島襄だけだった。
このため、松本五平は新島襄を敬愛し、洗礼も受けた。そして、学生に呼び捨てに
されると、「お前達は学が無いから呼び捨てにするんだ。新島先生を見習え」と言い
返すようになっていた。
松本五平は新島襄の死後も同志社に仕えたが、やがて、松本五平も病床に伏した。
松本五平は自分の命が長くないことを知ると、死んでも新島襄の近くに行きたいと
思うようになっていた。
そこで、松本五平は人を介して、新島八重に「私が死んだら、どうぞ新島先生の墓の
門の外に埋めてください。死んだ後も新島先生の門番をしとうございます」と頼んだ。
すると、新島八重は「貴方が亡くなったら、門の外ではなく、内に葬りましょう」と
約束した。それを聞いた松本五平は安心して死んでいった。
松本五平の死後、新島八重は約束を守って、若王子山にある同志社墓地内の出入口の
直ぐ側に松本五平の墓を建ててやった。新島八重が墓の敷地内に葬る約束をしたのは、
松本五平だけであった。
上述の配置図のように墓地入口の右側に松本五平の墓があり、松本五平は今も同志社墓地
の入口で、新島襄の墓守をしている。
関連サイト(新島襄と新島八重)
新島襄・新島八重夫妻と神戸
新島襄・新島八重夫妻と神戸 その2
ハンサムウーマン 新島八重 By NHK歴史秘話ヒストリア
勝海舟に関して過去にBlogに書いた小生の記事にリンクします。
リンク1 勝海舟寓居跡 2008-12-28改訂版
リンク2 勝海舟、西郷隆盛 江戸城無血開城の会見
リンク3 勝海舟像
リンク4 広島宮島 大願寺(だいがんじ) 長州藩士との会見
リンク5勝海舟が設計した和田岬砲台
リンク6 牛頭天王伝説の平野祇園神社
リンク7 和田神社
リンク8 開港して間もない神戸港(兵庫) By イラストレイテッド ロンドン ニュース
リンク9 神戸海援隊の碑
リンク10 海軍営之碑 in 諏訪山公園
リンク11 旧神戸海軍操練所跡
レンク12 網屋吉兵衛の顕彰碑 on 2010-9-29
リンク13 敦賀散策記 その8 気比の松原