房王寺跡(房王寺廃寺) |
また、房王寺の南および西側の地域には室内(もろのうち)という地名が残っており摂津国雄伴(おとも)郡の郡衛(ぐんが)があった場所としても知られています。
本日は房王寺と雄伴郡(のちの八部郡)の郡衛跡について調べてみましたので、主に写真で紹介します。
阿保親王(Wikipediaによる解説)
在原行平(818-893)は阿保親王の三男、在原業平(825-880)は阿保親王の五男である。
阿保親王(あぼしんのう、延暦11年(792年) - 承和9年10月22日(842年12月1日)は、平安時代前期の皇族。平城天皇の第一皇子。官位は三品・弾正尹、贈一品。
経歴
大同4年(809年)四品に叙せられるが、翌弘仁元年(810年)に発生した薬子の変に連座して大宰権帥に左遷される。弘仁15年(824年)に平城上皇の崩御の後に、嵯峨天皇によってようやく入京を許される。
天長3年(826年)行平・業平等の子息に在原朝臣姓を賜与され臣籍降下させている。翌天長4年(827年)上総太守に任ぜられる。天長10年(833年)仁明天皇の即位後まもなく三品に叙せられると、仁明朝では上野太守や治部卿・兵部卿・弾正尹等を歴任した。
子息を臣籍降下させるとの配慮にもかかわらず、あるいはその有能さゆえか、皇統の嫡流の地位を失ったとはいえ桓武天皇の嫡系の孫にあたる阿保親王の動向は注目の対象であったらしい[要出典]。承和9年(842年)ついに橘逸勢らから東宮・恒貞親王の身上について策謀をもちかけられるが、阿保親王は与せずに逸勢の従姉妹でもあった皇太后・橘嘉智子に密書にて報告し、判断を委ねた(承和の変)。今井源衛は、親王が早い段階で皇太后に報告したのには、円満な人として評判が高かった皇太后から従兄弟の橘逸勢に対して軽挙を止めるよう説得することを期待する意図もあったのではないかと推測している[1]。
変の3ヶ月後の10月22日に急死。享年51。最終官位は弾正尹三品。葬儀にあたって、承和の変で反乱を未然に防いだ功績により、一品の品位を追贈されている[2]。死因は明らかでないが、目崎徳衛は阿保親王への一品贈与の宣命から、親王が変後全く参内しなかったこと、その死がきわめて急であったことが知られるとし、親王の死は自殺ではないにしても、少なくても精神的には自殺に近かったのではないかと述べている[3]。内々に事を収めたいとの意図に反して処罰者(死者)が出たことは、阿保親王自身にとって非常に不本意であり、一品という高位の贈位もその遺志に沿わないものであったろうことが推測される[要出典]。

神戸アーカイブ写真館提供
神戸市長田区役所が監修(著者:田辺眞人、竹内隆)ながたの歴史Page12にも掲載
拡大した図はこちら。


郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所である。八部郡では兵庫の豪商として知られる北風家の先祖」が郡司をしていたという。神戸の偉大な歴史研究家の落合重信氏は「長田区小字界図」を作製され「神戸と歴史」90号の付録とされています。その小字名に室内(むろのうち)、塔の本、房王寺、宮の前、鳥居前、車寄、高廻り、桧門田、大門、堂の前などといった名前がありそれをもとに落合重信氏が作図され、ながたの歴史(初飯)Page26 図4であらわされています。その図が上記図のもととなっています。さらにこの「長田区小字界図」には二坪、三坪、六坪、上三六、下三六など条里制の名残りの地名もみられます。


条理制の三六橋、郡衛関連の室内橋が新湊川に架かっています。
房王寺の痕跡を辿るために遺跡調査の成果を概観したいと思います。
まず、室内遺跡の発掘調査があり室の内遺跡の紹介が ひょうごの遺跡27号 平成9年10月31日のPage7に載っており奈良~平安時代の前半のものと考えられる塑像の台座や寺院の軒瓦の写真も掲載されています。http://www.hyogo-koukohaku.jp/publication/remains/5tpuaj0000003t5s-att/5tpuaj0000003t65.pdfを参照。
軒瓦については摂津国莵原郡に所在の芦屋廃寺の発掘調査で出土した単弁十二弁剣状花文丸瓦と同じ型で製造されたものである。(年代は8世紀初頭)
上沢遺跡からは、奈良時代~平安時代の掘立柱建築物址、井戸址、軒瓦、硯、役人用の帯金具、彩釉陶器、全国でも珍しい完品出土物となった佐波理(さはり)鋺が出土している
天平19年(747年)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帖』に会下山の西麓に凡河内山寺という記述があり落合重信氏は房王寺の起源は凡河内(おおしこうち)氏の氏寺であったとの説を前述のながたの歴史の中で述べられています。

















