神戸市垂水区 多聞寺の追儺式 on 2014-1-5 |
まず多聞寺の紹介をします。
多聞寺の基本情報
住所:神戸市垂水区多聞台2-2-75 TEL:078-782-4445
山号:吉祥山 本尊:毘沙門天
宗派:天台宗
境内の重要文化財は阿弥陀如来坐像と木造日光菩薩・月光菩薩立像
5月に庭に咲き誇るカキツバタの寺としても有名です。
カキツバタの頃の訪問記(小生のBlog)
多聞寺の由緒
多聞寺は空海の弟子・慈覚大師=円仁 *1により貞観5年(863)開創された古刹です。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては源義経や源頼朝の帰依を得た。
本堂は正徳2年(1712)の再建と伝えられています。江戸時代には江戸幕府から
朱印状を与えられていた。
最盛期には本堂の他に坊頭が23坊もあったそうです。
前置きが長くなりましたが、本題の追儺式について記します。
古くに中国から伝わった、年の終わりに方相氏が悪鬼を駆逐する追儺行事が、
やがて寺院の年頭の行事である、天下泰平・五穀豊穣・招福攘災を祈る修正会に
附属する行事、追儺で踊るようになったものです。
現在は正月から小正月、節分にかけて、真言宗・天台宗を中心とする寺院で踊られます。
慶雲3年(706)文武天皇の時に流行した疫病を追い払おうと、宮中で大晦日に
鬼払いの儀式として行われたのが始まりとされています。
東大寺での修正会は天平勝宝4年(752)から行われている。
東大寺では修二会と呼ばれています。
出典:2013年12月30日放送のABCテレビ「よみがえる天平の秘仏」より
修正会は平安時代中期以降は諸大寺で一般的におこなわれるようになった。
創建が863年である多聞寺の追儺式がいつ頃から始まったのかは不明では
あるが恐らく1000年前後からの伝統があり約1,000年の歴史がある。
吉祥山 多聞寺の修正会は12月31日の除夜の鐘が撞き終った時から
始まり1月5日まで行われる初夜行法で結願は1月5日の11時ごろが
本来の形であるが火を使うため江戸時代からは現在の時間帯に変更された。
現在でも11時頃に結願い行事が続けられているのは吉田神社節分祭(2月2日)
の「火炉祭」である。
多聞寺の追儺式はまず14:00から法要があります。それに続き子鬼の登場です。
14:34 いよいよババ鬼の登場です。
ババ鬼は穢れを取り払う舞を披露します。
上の動画は3つ鬼の舞です。
太郎鬼は左手に斧、次郎鬼は槌(振り鼓)、ババ鬼は剣を持ち右手に
松明をもって鬼踊りを披露します。
上の動画は舞のあと餅まきの様子です。
最後のほうでは山飾りの授与があります。
上の動画は3鬼が登場の最後の舞で出てくる場所がそれまでと
異なっています。
追儺式での鬼の所作と付随行動の意味は下記のとおりです。
1)松明(たいまつ)を振り反閇(へんぱい)を踏む
松明の呪力で災難を除く(悪魔を払う)、農耕(豊作)の予祝として大地を清め蘇らせる
2)法螺貝を吹き、太鼓をたたく
乱声に通じ、悪を払う
3)餅切り
五穀豊穣の予祝
4)トンド
穢(けがれ)を落とし清める
兵庫県内の追儺式行事をまとめたサイトがありますのでリンクさせていただきます。
http://kobe-mari.maxs.jp/shrine_temple/tuinashiki.htm
五来 重・桜井 徳太郎・大島 建彦・宮田 登=編
講座日本の民俗宗教 2 仏教民俗学
III 仏教年中行事
修正会・修二会と民俗(五来 重)から類型を整理したものがありましたので
紹介しておきます。
多くの修正会、修二会はこれら16の類型のいくつかを組み合わせて行われています。
1)参籠型
2)鏡餅型
3)造花型
4)香水型
5)悔過(けか)型 走りの作法 五体投地
6)乱声型 杖や棒で床を打つ 鐘、太鼓、法螺貝や喚声をあげる
7)反閇(へんぱい)型 達陀(だだ) 走りと松明と八天跳躍からなる
8)鬼走型 鬼の面をつけて反閇
9)田楽型 田楽能
10)神楽型
11)火祭型 松明
12)裸祭型 裸で水垢離(みずごり)、押し合い、牛玉(ごおう)を争う 会陽(えよう)
13)牛玉型 牛玉宝印を加持し、これを参詣者や牛玉紙に捺す
14)大般若型 大般若経の転読
15)神名帖型 八百万神(やおよろずのかみ)を集める
16)魂祭型 過去帖を詠む
*1 天台宗の僧円仁(794年 - 864年)についてWikipediaによる解説
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、
第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・
円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
847年から854年に入唐。
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏
(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは
儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。
大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の
理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に
向かい、最澄に師事する。
奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に
立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。
最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられる
ようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。
816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。
この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は新しく
立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んで
そこに宝塔を建て一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地と
しようとするものであった。
817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも
大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、
私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
詳細はこちら。
多聞寺の修正会(追儺式)の詳細な解説
http://kita.yg.kobe-wu.ac.jp/resources/upload/pdfs/1127.pdf