2014年 01月 11日
裁松山 阿弥陀寺と法然松 on 2014-1-11 |
2014年1月11日(土)、阪神岩屋駅から三宮まで旧山陽道を中心に散策しました。
途中、裁松山阿弥陀寺に寄り写真を撮りましたので紹介します。阿弥陀寺には法然松の
伝説がありこれについても参考書の解説より要約引用します。
参考書:神戸の伝説 田辺眞人編著 のじぎく文庫 昭和51年(1976) Page50-51
神戸歴史トリップ 新中央区歴史物語 改訂版 道谷 卓著 平成17年(2005)
摂津名所図会 巻之7 莵原郡 寛政8年から10年(1796~98)に刊行
裁松山 阿弥陀寺の基本情報
住所:神戸市中央区 脇浜町2丁目5番13号
山号:裁松山 御本尊:阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩の3身一体の仏像
宗派:浄土宗
地図を添付しておきます。
承元元年(1207)、法然上人が四国讃岐へ流される際、脇の浜で風待ちをした。
また同年(1207)12月法然上人が許されて京都へ帰る際にも明石海峡を通って
東に向かった上人の一行は脇浜に上陸しました。
その際、法然上人は上人に帰依していた庄屋の富松右衛門の家へ泊まられた。
ここでしばらく逗留された法然上人は富松右衛門に法念十話を行いました。
その結果、富松石衛門は仏門に入り法入という名を授かり承元2年(1208)
10月に自宅を寺とし、阿弥陀寺と称し開基しました。
この阿弥陀寺の秘蔵の鐘は「松風」といった。この鐘を撞いて念仏を唱えると
鐘の音は六甲さんの峰々を越えはるか山むこうの谷上(たにがみ)にまで
聞こえた。そのことからこの鐘は「山越えの鐘」とも呼ばれている。
また、富松石衛門が法然上人に懇願して寺の西方200mの浜に「法然松」と
云われる3本の枝に分かれる老松を法然上人自身が植えたとの伝説も
残っています。
安永年間(1772年~1781年)に松はかれ始めたが、夢のお告げにより、
その松より法然像を作って祀ったのが現在の御本尊だと言われています。
摂津名所図会に描かれている法然松は2代目の松である。2代目の松も
大正時代に枯れ3代目の松が植えられたがそれも昭和55年(1980)に
枯れたため現在の松は4代目の松である。
寛政8年から10年(1796~98)に刊行の観光案内書「摂津名所図会」の記述は
下記のとおりである。
(1)阿弥陀寺
脇浜の村中にあり。栽松山と号す。浄土宗。本尊阿弥陀仏。開基は法入法師なり。
法然上人帰洛の時、この浦人富松右衛門が家に宿らせたまひ、専修念仏の弘法を
勧化ありて小松を海畔に栽ゑたまひ、われ本願末代に栄えなんしるしにといひたまふ。
かの松右衛門も御弟子と成り、法入と改名し、我が宅を寺となし、阿弥陀寺と号し
念仏の道場となしぬと寺記に見えたり。寺の什宝に山越鉦といふあり。
法然上人、船中にてならしたまひ、念仏修行したまふ。
その音、山を越えて殊勝に聞こえしより名とせり。
この寺正しき旧跡なれぱ、ニ十五霊場の中に入るべきに、除かれし事不審なり。
後世の所造か。後考をまつなり
(2)法然松
脇浜の磯辺にあり。伝へ云ふ、承元年中、法然上人讃州より帰洛の時、
この地に泊まり、植ゑ置きたまひしとぞ。
古松は枯れて、株三丈ばかり遺る。側に植ゑ継ぎの松あり。
枝葉繁茂して蟠竜のごとし。ことにこの地風景佳なり。

上の写真は2014年1月11日撮影の阿弥陀寺の建物です。手前は墓所。
本堂は、近松門左衛門の「心中天の網島」で、紙屋治兵衛と紀伊国屋の遊女小春が
心中した大阪網島の大長寺を、明治の頃移築したもので阪神淡路大震災までは残って
いましたが震災で全壊し現在の本堂は平成16年(2004)に再建されたものです。

上の写真は阿弥陀寺の正面玄関の石碑で法然御霊跡 阿弥陀寺と書かれています。
境内に4代目の松と法然松の碑があるのですが写真を撮りませんでした。
その代わりに墓所にある松と古い墓碑の写真を2枚添付しました。(下記)


途中、裁松山阿弥陀寺に寄り写真を撮りましたので紹介します。阿弥陀寺には法然松の
伝説がありこれについても参考書の解説より要約引用します。
参考書:神戸の伝説 田辺眞人編著 のじぎく文庫 昭和51年(1976) Page50-51
神戸歴史トリップ 新中央区歴史物語 改訂版 道谷 卓著 平成17年(2005)
摂津名所図会 巻之7 莵原郡 寛政8年から10年(1796~98)に刊行
裁松山 阿弥陀寺の基本情報
住所:神戸市中央区 脇浜町2丁目5番13号
山号:裁松山 御本尊:阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩の3身一体の仏像
宗派:浄土宗
地図を添付しておきます。
承元元年(1207)、法然上人が四国讃岐へ流される際、脇の浜で風待ちをした。
また同年(1207)12月法然上人が許されて京都へ帰る際にも明石海峡を通って
東に向かった上人の一行は脇浜に上陸しました。
その際、法然上人は上人に帰依していた庄屋の富松右衛門の家へ泊まられた。
ここでしばらく逗留された法然上人は富松右衛門に法念十話を行いました。
その結果、富松石衛門は仏門に入り法入という名を授かり承元2年(1208)
10月に自宅を寺とし、阿弥陀寺と称し開基しました。
この阿弥陀寺の秘蔵の鐘は「松風」といった。この鐘を撞いて念仏を唱えると
鐘の音は六甲さんの峰々を越えはるか山むこうの谷上(たにがみ)にまで
聞こえた。そのことからこの鐘は「山越えの鐘」とも呼ばれている。
また、富松石衛門が法然上人に懇願して寺の西方200mの浜に「法然松」と
云われる3本の枝に分かれる老松を法然上人自身が植えたとの伝説も
残っています。
安永年間(1772年~1781年)に松はかれ始めたが、夢のお告げにより、
その松より法然像を作って祀ったのが現在の御本尊だと言われています。
摂津名所図会に描かれている法然松は2代目の松である。2代目の松も
大正時代に枯れ3代目の松が植えられたがそれも昭和55年(1980)に
枯れたため現在の松は4代目の松である。
寛政8年から10年(1796~98)に刊行の観光案内書「摂津名所図会」の記述は
下記のとおりである。
(1)阿弥陀寺
脇浜の村中にあり。栽松山と号す。浄土宗。本尊阿弥陀仏。開基は法入法師なり。
法然上人帰洛の時、この浦人富松右衛門が家に宿らせたまひ、専修念仏の弘法を
勧化ありて小松を海畔に栽ゑたまひ、われ本願末代に栄えなんしるしにといひたまふ。
かの松右衛門も御弟子と成り、法入と改名し、我が宅を寺となし、阿弥陀寺と号し
念仏の道場となしぬと寺記に見えたり。寺の什宝に山越鉦といふあり。
法然上人、船中にてならしたまひ、念仏修行したまふ。
その音、山を越えて殊勝に聞こえしより名とせり。
この寺正しき旧跡なれぱ、ニ十五霊場の中に入るべきに、除かれし事不審なり。
後世の所造か。後考をまつなり
(2)法然松
脇浜の磯辺にあり。伝へ云ふ、承元年中、法然上人讃州より帰洛の時、
この地に泊まり、植ゑ置きたまひしとぞ。
古松は枯れて、株三丈ばかり遺る。側に植ゑ継ぎの松あり。
枝葉繁茂して蟠竜のごとし。ことにこの地風景佳なり。

本堂は、近松門左衛門の「心中天の網島」で、紙屋治兵衛と紀伊国屋の遊女小春が
心中した大阪網島の大長寺を、明治の頃移築したもので阪神淡路大震災までは残って
いましたが震災で全壊し現在の本堂は平成16年(2004)に再建されたものです。

境内に4代目の松と法然松の碑があるのですが写真を撮りませんでした。
その代わりに墓所にある松と古い墓碑の写真を2枚添付しました。(下記)


by seiyo39
| 2014-01-11 18:10
| 神戸情報
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