脇浜乙女塚の碑(脇浜天王塚古墳) on 2014-1-11 |
(脇浜天王塚古墳)の写真を撮ってきましたので紹介します。
脇浜乙女塚の碑は昭和8年(1933)に建てられたもので、碑の南約100mの
ところにあった前方後円墳(帆立貝式)の脇浜天王塚古墳のことを記憶に
留めるために建設されたと思われます。
神戸市教育委員会が平成21年3月に作成した神戸市埋蔵文化財分布図
神戸市中央区No.20脇浜西、No.21中央区No.21いずれも海岸通りに所在
のいずれかに相当するものとおもわれます。(分布図の該当部を添付)


寛政8年から10年(1796~98)に刊行の観光案内書「摂津名所図会」には
下記のような記述があります。
「天王塚 畔塚 和理塚
ともに脇浜にあり。いづれも由縁不詳」
和理塚(割塚古墳)については小生のブログでまとめています。
神戸市JR灘駅近くにある割塚古墳の碑 on 2012-6-8
明治43年(1910)10月神戸市地籍図(柿花肇氏)には古墳の位置が
明記されています。古墳1が中央区No.21に相当。古墳2が脇浜西に相当
全体と部分拡大図を添付。(下記)


遺跡ウォーカー(下記アドレス)の解説を引用転記させていただきます。
http://www.isekiwalker.com/iseki/237552/
集成、古墳(前方後円墳(帆立貝式))。<立地>平野。
周辺の平地からの比高0m、方位ほぼ西南西、墳長推定約120m、
<保存状況>大正末期?昭和初期に盛土の一部残存するが、その後消滅
集成、乙女塚古墳とともに『摂津名所図会』『神戸覧古』などに記載。
明治・大正期の神戸市全図にも位置記載を見る。
1927年に渡部多仲の復元研究、1977年に落合重信による乙女塚古墳の
復元研究がみられるが、
喜谷美宣は『新修神戸市史』文献で両墳を同一墳とみなして平面を復元。
1992年1月3日実査。
下の写真4枚(2014-1-11撮影)が脇浜乙女塚の碑と地蔵の祠です。




脇浜乙女塚の碑の所在地の地図を添付しておきます。
菟原処女の伝説についてWikipediaの解説を引用紹介します。
菟原処女の伝説(うないおとめのでんせつ)とは神戸市東部に伝わる、
二人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、男たちが後を追って死んだ
という伝説である。古くは『万葉集』に歌が残されており、
奈良時代から語られていた。
東灘区御影塚町の処女塚、灘区都通の西求女塚、東灘区住吉宮町の
東求女塚は彼らの墓と伝えられる。
しかし実際の築造時期はそれぞれ異なっており、事実とは考えられず、
この地方の豪族を葬った墓と見られる。
中央区脇浜町には乙女塚古墳があるが関連は不明。
あらすじ
神戸の東部から芦屋にかけてが、大阪湾沿岸の湿地に茂る芦を屋根に
ふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていた頃の話である。
葦屋の菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、
多くの若者から思いを寄せられていた。
中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た
茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な益荒男が彼女を深く愛し、
妻に迎えたいと激しく争うようになった。処女が母に語らく
「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、
生きていても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます。」と嘆き
悲しんで死んでしまった。
茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て、後を追った。
菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって、後を追った。
親族たちは集まって、この事を長く語り継ごうと、娘の墓を中央に、
男の墓を両側に作ったという。
『万葉集』では高橋虫麻呂、田辺福麻呂、大伴家持の3人が
莵原処女を歌っている。
平安時代に書かれた『大和物語』ではこの伝説が脚色され、
舞台は生田川となり、娘の親が男たちに難題を出し、
3人の死後に墓を作る事について争いが起きたとされている。
観阿弥または世阿弥の作と伝えられる謡曲『求塚』では男たちは
刺し違えて死んだとされる。川本喜八郎はこの謡曲を基に、
人形アニメーション映画『火宅』を制作している。
森鴎外はこの伝説を題材として戯曲『生田川』を書いた。