2014年 01月 20日
厄神大祭 on 2014-1-20と摂津名所図会に見られる田井畑八幡宮(現在の多井畑厄除八幡宮)とその周辺 |
2014-1-20に多井畑厄神(正式名称は多井畑厄除八幡宮)の厄除大祭にお参りしてきました。その時の様子を写真紹介するとともに寛政8年から10年(1796~98)に刊行された当時の旅行ガイド「摂津名所図会」の中にも田井畑八幡宮(現在の多井畑厄除八幡宮)とその周辺が紹介されていますのでその話題についても紹介します。まず2014年の厄除大祭について写真紹介します。
多井畑厄神八幡宮(多井畑厄神)は日本最古の厄除けの霊地として伝えられています。
毎年、厄除大祭は1月18日から20日に実施されます。
多井畑厄除八幡宮(多井畑厄神)の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑字宮脇1番地
TEL:078-741-0827
多井畑厄神のHP
地元では「多井畑(たいのはた)の厄神さん」と呼ばれ親しまれています。
資料によりますと、770年に疫病が大流行し、それを鎮めるために
五幾内の国境10箇所に祀った疫神で疫祓いが行われた、とあります。
ここは古山陽道の摂津と播磨の境に位置しています。
社殿は高倉天皇の安元年間(1175-1177)京都男山八幡宮を勧請して造営されたのが
初めてであるといわれている。
社伝では在原行平や源義経が祈願したと伝えられている。


上の2枚の写真は拝殿と拝殿に新たに設置された足型。


上の2枚の写真は境内の摂社(高良社、稲荷社など)


上の2枚の写真は新築された疫神社前の拝殿と拝殿の鬼板の雄姿。

上の写真は疫神祭塚の由緒が書かれた石碑。
「 此の塚は疫神祭塚という。四囲繞らすに築地の如きものを以てし、その斜面に濠の跡を存在せり。称徳天皇の御宇神護景雲4年6月甲寅の日勅旨を以て摂津播磨の境なる此の処に疫神を祀りて厄災を除き給えり。この事は続日本紀に明らかにして、延喜式巻3にも載せられたり。爾来此の処をば厄除の霊地として存すること久し。実に1200余年の遺跡とす。」


上の2枚の写真は疫神祭塚と人形のお祀りをする水槽。

寛政8年から10年(1796~98)に刊行された当時の旅行ガイド「摂津名所図会」の中にも田井畑八幡宮(現在の多井畑厄除八幡宮)とその周辺が紹介されています。(上の写真)
田井畑八幡宮(現在の多井畑厄除八幡宮)の説明書き:田井畑村の入り口の上にありこの所の生士神とす。例祭八月十五日。
また鳥井の下十歩ばかり薮の内に土神の祠あり。むかしこの多井畑を闢き(ひらき)し夫婦の小祠とぞ。
鏡の池の説明書き:八幡宮の下半町ばかり西にあり。諺(ことわざ)に云ふ、松風・村雨ここにて水鏡を見て髪を梳り(けづり)しとぞ。
現況の写真(鏡の井)
松風村雨二人墓説明書き:田井畑の村中にあり。この地の字を畑殿といふ。古老云ふ、むかしこの所の村長畑殿の娘に、もしほ・にふじとてあり。須磨の浦へ潮を汲みに通ひし時、在原行平卿二人をめされて松風・村雨と呼びたまふ。かの卿帰洛の後ここに帰り終はりをとりしとぞ。すべて今も海浜は湖をくんで米を煎て常に食す。いはゆる潮雑水これなり。その頃もこの山民塩を調ふる事なく、日毎に潮水を汲んで飯事の用をなす事古今に変はらず。
現況の写真紹介
田井畑鷲尾旧屋(たゐのはたわしのをのきゆうおく)の説明: 田井畑の村長に鷲尾次郎兵衛といふ者あり。この祖先一谷合戦の時九郎判官殿に鵯越の嶮路を案内しける支族の中なり。旧記紛失してその証詳らかならず。兜鎧(かぶとよろひ) その時拝領しけるとなり。兜は筋甲にて鍬形は独鈷の彫物あり。鎧は胴六枚札にて左右に四所蝶番あり。引き合はせは後の方なり。また引き合はせの上を覆ふ背板あり。長さは押着の板より下散の裳までこれあり。縅は惣紫糸にて裳は紅なり。革は承平革、小手袖その外とも草花の模様あり。また喉輸佩立等もこれあり。空穂(うつぼ) 熊毛をもつて製りたるなり。
征矢十六筋(そやじゅうろくすじ) 根は雁俣鎧(かりまたよろい)通しの類なり。大小にて十六本あり。
多井畑厄神八幡宮(多井畑厄神)は日本最古の厄除けの霊地として伝えられています。
毎年、厄除大祭は1月18日から20日に実施されます。
多井畑厄除八幡宮(多井畑厄神)の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑字宮脇1番地
TEL:078-741-0827
多井畑厄神のHP
地元では「多井畑(たいのはた)の厄神さん」と呼ばれ親しまれています。
資料によりますと、770年に疫病が大流行し、それを鎮めるために
五幾内の国境10箇所に祀った疫神で疫祓いが行われた、とあります。
ここは古山陽道の摂津と播磨の境に位置しています。
社殿は高倉天皇の安元年間(1175-1177)京都男山八幡宮を勧請して造営されたのが
初めてであるといわれている。
社伝では在原行平や源義経が祈願したと伝えられている。







「 此の塚は疫神祭塚という。四囲繞らすに築地の如きものを以てし、その斜面に濠の跡を存在せり。称徳天皇の御宇神護景雲4年6月甲寅の日勅旨を以て摂津播磨の境なる此の処に疫神を祀りて厄災を除き給えり。この事は続日本紀に明らかにして、延喜式巻3にも載せられたり。爾来此の処をば厄除の霊地として存すること久し。実に1200余年の遺跡とす。」



田井畑八幡宮(現在の多井畑厄除八幡宮)の説明書き:田井畑村の入り口の上にありこの所の生士神とす。例祭八月十五日。
また鳥井の下十歩ばかり薮の内に土神の祠あり。むかしこの多井畑を闢き(ひらき)し夫婦の小祠とぞ。
鏡の池の説明書き:八幡宮の下半町ばかり西にあり。諺(ことわざ)に云ふ、松風・村雨ここにて水鏡を見て髪を梳り(けづり)しとぞ。
現況の写真(鏡の井)
松風村雨二人墓説明書き:田井畑の村中にあり。この地の字を畑殿といふ。古老云ふ、むかしこの所の村長畑殿の娘に、もしほ・にふじとてあり。須磨の浦へ潮を汲みに通ひし時、在原行平卿二人をめされて松風・村雨と呼びたまふ。かの卿帰洛の後ここに帰り終はりをとりしとぞ。すべて今も海浜は湖をくんで米を煎て常に食す。いはゆる潮雑水これなり。その頃もこの山民塩を調ふる事なく、日毎に潮水を汲んで飯事の用をなす事古今に変はらず。
現況の写真紹介
田井畑鷲尾旧屋(たゐのはたわしのをのきゆうおく)の説明: 田井畑の村長に鷲尾次郎兵衛といふ者あり。この祖先一谷合戦の時九郎判官殿に鵯越の嶮路を案内しける支族の中なり。旧記紛失してその証詳らかならず。兜鎧(かぶとよろひ) その時拝領しけるとなり。兜は筋甲にて鍬形は独鈷の彫物あり。鎧は胴六枚札にて左右に四所蝶番あり。引き合はせは後の方なり。また引き合はせの上を覆ふ背板あり。長さは押着の板より下散の裳までこれあり。縅は惣紫糸にて裳は紅なり。革は承平革、小手袖その外とも草花の模様あり。また喉輸佩立等もこれあり。空穂(うつぼ) 熊毛をもつて製りたるなり。
征矢十六筋(そやじゅうろくすじ) 根は雁俣鎧(かりまたよろい)通しの類なり。大小にて十六本あり。
by seiyo39
| 2014-01-20 18:34
| 神戸情報
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