落柿舎 in 京都市嵯峨野 on 2011-6-6 |
落柿舎は松尾芭蕉の弟子、向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がある。古い家の周囲には40本の柿の木があったという。柿を売る契約をした後、柿が全部落ちたことからこの名前が付けられたそうです。
落柿舎(らくししゃ)の基本情報
住所:京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20 TEL:075-881-1953
公式HP:http://www.rakushisha.jp/
松尾芭蕉はこの草庵に3度訪れており、元禄4年(1691)4月18日から5月4日の逗留時に有名な「嵯峨日記」を書いています。
「賀茂川のはやせの波のうちこえし ことばのしらべ世にひびきけり」
向井去来の墓は当日写真を撮っていないのでグーグルのストリートビュー(©)からの写真を添付しておきます。
上の写真は元京都大学総長の平澤興(ひらさわこう)の句碑。俳人塔竣工祭の折の作だそうです。
「春の雨 天地ここに俳人塔」と書かれています。
上の写真は落柿舎十一世庵主の工藤芝蘭子(くどうしらんし)の句碑で「十三畳の落柿舎冬支度」と書かれています。
向井去来についてWikipediaより引用紹介します。
向井去来(むかい きょらい 慶安4年(1651年) - 宝永元年9月10日(1704年10月8日)))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。儒医向井元升の二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれる。堂上家に仕え武芸に優れていたが、若くして武士の身分をすてた。京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住み、松尾芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。野沢凡兆と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された。
松尾芭蕉は「洛陽に去来ありて、椿西に俳諧奉行なり」と向井去来を称えました。