忠孝岩 on 2014-1-29 |
まず、場所についてですが神戸水道局の垂水接合井の側道を通りさらに山に入り200m位?進んだところにあります。大体の位置を地図に表示しました。
この忠孝石の謂われについて『名谷誌』 名谷誌編集委員会、名谷町連合自治会、1973年のPage413で平岡萬治氏の子孫の平岡忠男氏が忠孝石の経緯について詳細な
寄稿があります。その内容について要約して紹介します。
日清、日露戦争を経て国家中心主義の思想が大勢を占めていた頃 忠孝岩の忠孝の文字を刻んだ平岡萬治氏は明治40年9月県立姫路中学を卒えて第二高等学校に入学した。翌年2年生に進級7月に帰省していたときに刻まれたものである。
この忠孝岩の手前50mほどのところに東名村の人々が山の神と称して当時毎日お詣りしている岩もありここにもいろいろな文字が刻まれていました。(下の写真)
平岡萬治氏はその後東京大学工科を卒業し農商務省に奉職、燃料研究所長を最後に退職、直ちに満鉄に入社石炭液化の研究に取り組んだ。この頃にはキリスト教主義のコスモポリタンに変身しており忠孝の上のほうに石工に依頼して「十ちとせの岩1957」と刻んでもらったとのこと現地でこの文字を確認できませんでした。