橋本関雪先生の父親、橋本海関先生について |
上記のサイトで紹介した内容を再掲します。(下記)
橋本海関は嘉永5年(1852)明石藩の家臣橋本文水・マサ夫妻の子として生まれた。
本名は橋本子六。橋本徳有則という号も使用しています。
生家は明石市天文町の平忠度(ただのり)の塚のある場所の北側(明石村158番地)である。
橋本海関の父親の橋本文水は学問方の先生を勤め博学で山水画が上手かった。
橋本海関の祖父は剣術、柔術の武芸の指南役をつとめていました。
橋本海関先生の足跡を年代順に辿ってみたいと思います。
文久9年(1861)橋本海関9歳 母マサに実家山内家の明石藩士真陽に孟子を勉学
真陽が亡くなった後は梁田蛻巌 (やなだぜいがん)の景徳館に入り
梁田葦洲(やなだいしゅう)に師事しました。
慶応2年(1866)橋本海関14歳 明石藩講武所詰となり武士道を学ぶ
慶応4年/明治元年(1868)橋本海関16歳 父橋本文水より詩を学ぶ
明治5年(1872)橋本海関20歳 敬義館の国語教師に就任
明治10年(1877)橋本海関26歳 兵庫県師範学校の教師となる
明治11年(1878)橋本海関27歳 神戸中学校の教師(併任)
明治xx年 橋本海関が池田フジ(不二子)と結婚 神戸市中央区楠町に居
フジは武家の娘であり書、絵、歌、琴等に秀でた才媛で美人であった
明治16年(1883)橋本海関32歳 長男の橋本関雪が生まれる
明治21年(1888)橋本海関37歳 妻フジが5歳の関雪と妹チエを残し家出
家出の理由は奇行の多い海関に愛想をつかしたという説と
フジに愛人ができたという説がある。
5歳の関雪を育てたのは祖母のマサになります。マサの実家の山内家も
儒家で漢文や絵を描くことに優れていた。子守唄の代わりに孔子の教え
の論語を聞きながら海関、関雪が育てられたとのこと。
明治xx年 清国大使館書記官の鄭孝胥(ていこうしょ)との出逢い
横浜で清国の政治家康有為(こうゆうい)の支援(翻訳など)
明治32年(1899)橋本海関48歳 加古川市尾上町の尼寺に寄寓
明治39年までの7年間
明治40年(1907)橋本海関56歳 明石の天文町に居を移す「赤石三勝」を著作
大正2年(1913) 橋本海関62歳 長男の橋本関雪と孫の節哉を同行して中国旅行
帰国後「一葦航吟」を著作
大正9年(1920) 橋本海関69歳 郷土の名勝を散策、昭和8年まで15年かけて
「明石名勝古事談」を著作
全11巻ある著作で明石の郷土史の基礎となっている
昭和10年(1935)橋本海関84歳 明石の地で没
2014年2月11日に明石市立図書館で橋本海関先生(1852-1935)に関する資料を若干収集しましたのでその内容を付け加えて再度、橋本海関先生の足跡を辿ってみたいと思います。
参照した資料は下記のとおりです。
1) 明石ゆかりのひとびと (財)兵庫県学校厚生会編 神戸新聞総合出版センター (1999) Page183-188
2) 明石市史 Page78-79
3) 明石名勝古事談 復刻版 橋本海関著 昭和49年(1974)
4) 播磨学紀要 播磨学研究所 第10号 (2004.10) Page12-22
まず、橋本海関著の明石名勝古事談 復刻版の表紙に橋本海関の写真がありましたので添付させていただきます。
1.儒家(学者)としての橋本海関
橋本家は明石藩の剣術・柔術の武芸の指南役を務めていましたが橋本海関の父、橋本文水の代からは学問方の先生となり「文人」の家系となった。橋本文水は南画が好きで山水画をよく描いており、寺子屋などをしていた。橋本文水の兄弟には昆虫学者で有名な松村松年の父や松村如屏(写生画)や浦井香園(花鳥画)がおり芸術家の血が橋本海関には流れていると言える。橋本海関は文久元年(1861)の頃、母マサの実家山内家の儒者、山内真陽や梁田蛻巌(やなだぜいがん)のつくった景徳館で梁田葦洲(やなだいしゅう)に師事して儒学を学んでいます。それより前の海関の幼い頃、母のふところで論語を子守唄のように聞かされて育った。漢学者としての素養はこの頃から育まれていった。上記の山内真陽は幕末の日本の国情をよく理解し、幕末の勤皇の志士の佐賀藩西村周平、周防の志士江村彦之進・小川轍之、播磨網干の漢学者河野鉄兜らとも親交があった。
2.教育者としての橋本海関
橋本海関17歳の慶応3年(1867)には明石藩校「敬義館」、江井ヶ島の郷校の句読方として教鞭をとっています。のちには兵庫県師範学校や神戸中学校で教諭を務めています。
3.詩人としての橋本海関
橋本海関の詩集には海関詠物詩集、赤石三勝詩、馬牛裾集、一葦航吟、馬牛裾余輯などがあります。
海関詠物詩集は国会図書館のデジタル資料で確認できます(下記サイト)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/893432
4.書家としての橋本海関
橋本海関は知り合いから頼まれると気軽に墨書を書いた。明石市内には橋本海関揮毫の石碑が残っています。
1)月照寺の「八房世姿の梅」と書かれた石碑
2)月照寺の「八房梅霊樹」の石碑
3)月照寺境内の石碑「海上安全船乗十一面観世音菩薩」
4)中崎にある「中崎遊園」と書かれた石碑
5)「菅公旅次遺跡」の石碑
写真などは下記アドレスのサイトに掲載しています。
http://seiyo39.exblog.jp/19958050/
5.日中文化交流に貢献した橋本海関
明治24年(1891)駐日大使館領事館として来日し、のちに明治27年(1894)日清戦争の直前に神戸総領事となった鄭孝胥(ていこうしょ)との出会いをきっかけに清国の学者で政治家の康有為(こうゆうい)とも交友。
日本語から中国語に翻訳された「東亜報」の出版に協力している。
康有為(こうゆうい)を支援し東亜同文会も結成され横浜での活動にかかわるが横浜での借金がかさみ貧しい生活となり明治32年より7年間加古川の尼寺に寄寓する ことになります。
6.郷土史の著作
晩年、明石名勝古事談を著作しています。