前田又吉と常盤楼 |
私のネット環境は昨年(2013年)9月26日からEOひかりを導入している。EOひかりにはeo光チャンネルというテレビ番組がありその中で18:00から放送の歴史ろまん紀行が神戸他関西地方の面白い歴史コンテンツを提供しています。
上記の歴史ろまん紀行2014年2月7日(金)~2月20日(木)は前田 又吉 ~侠気の常盤楼主~で面白かったのでブログ記事にすることにしました。解説は芦屋大学大学院 楠本 利夫 客員教授
放送内容はWebでも視聴できます(下記サイト)
http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishiroman/
前田又吉が神戸の発展に寄与した業績は数多く神戸の歴史で忘れてはならない人物である。
まず前田又吉について彼が興した京都ホテルのグループ(現在の京都ホテルオークラをはじめとする京都ホテルグループのHPに詳しく解説されています。以下そのまま引用(一部加筆)させていただきます。http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no17.html
前田又吉(1830~93)
前田又吉は、明治26年(1893)1月12日、ついに帰らぬ人となりました。戒名は「大功院仁徳信常居士」、64歳でした。大阪天王寺区の源聖寺に葬られています。
前田又吉の履歴については、詳しい記録が残されていません。わずかに、「神戸開港三十年史」(明治31年刊)と「神戸市史」(大正10年刊)、それに戦後のことになりますが、神戸新聞に連載された「海鳴りやまず?近代史の主役たち」(昭和52年刊)などにその名が見える程度で、あとは断片的な資料が一、二散見されるだけです。 大阪の裕福な家に生まれて、若い頃は遊興に身を持ち崩したといいます。貧乏して兵庫の佐比江にあった米市場のあたりで、露店の煮売り屋を始めましたが、やがて小料理屋を開くようになりました。明治初年、花隈で料亭「常盤花壇」を経営します。花隈には旧三田藩主・九鬼隆義の別邸があり、お殿様が前田をヒイキにしたということです。北風正造・神田兵右衛門・藤田積中といった地元名士と交わりが始まりました。明治6年(1873)、諏訪山に鉱泉が出るのに目をつけ、土地を借りて「常盤花壇」をここに移し「常盤楼」と名付けました。温泉料亭です。資金は九鬼が出したといいます。同15年ごろには「常盤花壇」は東・中・西の三店に増え、いずれも身内の者に営業させたようです。自分は宇治川にも「常盤」をつくり経営にあたりました。
以下略
京都ホテルオークラに下記の又吉泉記という記念碑が残されています。上記の京都ホテルグループのサイト(http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no17.html)より再度引用させていただきます。
『又吉泉記』
神戸の諏訪山に霊泉が涌いた。英国人某が、これを鉱泉として利用することをすすめたが、誰も信用しなかった。ただひとり前田又吉が、資産を注ぎ込み、荒れ地を拓いて酒楼を建て庭をつくって温泉料亭をひらいた。おかげで、人も住まなかった地が、数年のうちに、繁華な地になった。
これみな、前田又吉の功績である。この泉を又吉泉と名付けることとした。
一六居士巌谷修撰書 明治15年10月
諏訪山にある山手大学が須磨山温泉についてまとめており下記のPDFファイルの10ページ目に諏訪山温泉「常盤楼」の絵を掲載しています。
出典:豪商神兵ー湊の魁
http://www.kobe-yamate.ac.jp/library/suwayama/pdf/suwayama23.pdf
今後神戸に残る前田又吉の調査をして遺構を散策しに出かけたとも考えています。