花隈城跡(花隈公園) on 2014-1-29 |
花隈城(はなくまじょう)は、兵庫県神戸市中央区の元町駅西方(阪神花隈駅の北方)にあった城。別名は花熊城、鼻隅城などがある。
現在の花隈公園となっているがこちらは花隈城を再現したものではなく、単にお城のイメージを残すために花隈城跡の敷地内の駐車場の上に石積みし公園としたものである。
花隈城はいうまでもなく荒木村重の有岡城(伊丹市)の支城である。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では第3回(1月26日放送)で黒田官兵衛(1546-1604)と荒木村重(1535-1586)との出会い 永禄8年(1565)母里武兵衛と栗山善助をともに堺に出立した途中山賊に襲われた黒田官兵衛を荒木村重が救ったと紹介第6回(2月9日放送)で荒木村重が織田信長に仕官、永禄11年(1568)9月の織田信長の上洛の途中に荒木村重が刀にさされた餅を食べるシーンが印象的であった。第7階(2月16日放送予定)荒木村重のあっせんで黒田官兵衛は天正3年(1575)10月、織田信長に仕官します。
花隈城跡(花隈公園)の基本情報
住所:神戸市中央区花隈町1 (花隈公園)
創建:永禄11年(1568)摂津国守護の和田惟政が築く
天正2年(1574)に有岡城主の荒木村重により改築
説明書きには永禄10年(1567)織田信長が荒木村重に命じて築かせたと書かれいるが
この時期信長はまだ入京しておらず摂津に力を及ばす状況ではなかったので上記とした。
落城:天正8年(1580)7月
前置きが長くなりました写真紹介に入っていきます。
「花隈城跡 花隈城は永禄10年織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段としてこの土地に、摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。後に天正6年村重が織田信長にそむいたとき、花隈城は池田信輝らに攻められて天正8年8月2日に落城した。城の地点は海に突き出たハナクマの名の通りの台地で海陸の要害地である。城の規模は古図によると本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け、二ノ丸、三ノ丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるが、建物の構造などは詳しく分からない。城の西には花隈町があった。現在の地形では大体東は県庁、西は善福寺(モダン寺)、南は国鉄高架線、北は市電山手線の区域で東西約350m、南北約200mであったと思われる。 昭和44年3月」
尚、本丸の天守閣の跡は現在福徳寺(福原西国33箇所第19番)にあります。詳細は花隈城跡と天守跡
再度福徳寺の門の前の石碑「花隈城天守閣之趾」と書かれた石碑の写真を添付しておきます。
裏面には昭和3年(1928)神戸の郷土史の発展に多大な貢献をした福原会下山人(福原潜次郎)などが発起人となり建造されたことや花隈城の歴史を示す文章が刻まれています。全文を抜き出します。
花隈城阯 侯爵池田宣政書
室町幕府ノ末期ハ綱紀頗ル紊レ 所謂戦国時代ニ遷リ群雄割拠シ兵馬息ム 莫シ當時摂州矢田部花隈ノ地ハ海陸ノ咽喉要衛タリシヲ以テ大阪石山城ニ籠レル一向宗ノ門徒ノ織田信長ニ攻メラルルヤ遙ニ援ヲ芸州ノ毛利氏ニ求ム 毛利氏粮米ヲ運上スルニ當リ 先ツ之ヲ花隈城ニ貯フ 紀州雑賀ノ門徒野口與一兵衛之ヲ守ル 信長偵知シ急ニ攻メシム 城将野口戦死ス永禄十一年信長荒木摂津守村重ニ命シテ城ヲ修セシム村重ノ弟志摩守元清之ヲ守ル 蓋シ花隈ハ伊丹ノ支城ナリ 天正七年五月村重信長ニ叛キ伊丹城ニ據ル 信長大挙之攻ム同年十二月伊丹城陥ル 信長池田信輝ニ命シ花隈ヲ攻メシム 城兵固守ス信輝父子城外ニ附塁五箇所ヲ設ケ包囲攻撃ス 翌年七月城終ニ陥ル信長此地方ヲ信輝ニ領セシムルヤ花隈城ノ舊材ヲ兵庫ニ移ヂテ築城シ池田城ト呼ビタリ 而シテ花隈城ノ故址ハ高城ト称シ明治ノ初年迄ハ一幹ノ老松亭々トシテ聳ユルモノアリシモ廃墟空シク叢中ニ埋マレル 只地ノ官有タルヲ以テ地勢ニ激甚ナル変化ヲ見ス 明治三十四年四月神戸港務局カ表時球ノ地下工事ナスニ當リ地下六尺ニシテ五輪塔ヲ発掘セリ 之レ築城以前ニ在リシ建武年間創立ニ係ル吟松庵ノ遺物ナルベシ 昭和二年十月此処ニ電信ノ校舎ヲ建築スルニ際シ愈舊城タリシ證跡歴然タルモノアルヲ見ル 神戸郵便局長水野此呂文舊蹟ノ堙城セシコトヲ慨キ之ヲ地方有志ニ謀ル 偶新潟縣人後藤文司之ヲ聞キ其挙ヲ賛シ工費ノ全部ヲ支出シ 茲ニ建碑シ以テ史蹟ヲ不朽ニ傅フト云爾
昭和三戊辰年二月 會下山人 福原 潜 撰
華 城 小島 錬 書
明治34年(1901)若林秀岳による神戸覧古の花隈古城の絵(神戸市立中央図書館アーカイブより)にリンクしておきます。
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/pages/043/043_020.html
・上記のサイトのページはPCでの閲覧用に製作されておりスマートフォンなどの携帯端末や一部の情報機器では正しくご覧になれません。
昭和3年までは上記の石碑に刻まれているので省略しそれ以降の花隈城跡の動向を述べていきます。
昭和26年(1951)
花隈 富貴楼の新築工事の際、五輪塔及び宝篋印塔の基礎部が井戸の機材として利用されていたことが判る。五輪塔の年号には1535年から1567年までの8基が確認された。よってこれらは花隈城が建設される以前の五輪塔の地輪部と宝篋印塔の基礎部であると判断された。出典:神戸史談 204号(復興06号)1952/5/15 川辺賢武先生 Page1-4
昭和44年(1969)
本丸跡の小山が切り崩され駐車場が建設されます。
周辺の写真が少ないので2014-1-29現在の周辺の石垣の状況写真を添付しておきます。
書き足りない部分もあるが取り敢えずアップします。