宝篋印塔の基礎知識と年代別に観た神戸市内の宝篋印塔 |
Wikipediaでは下記のように解説しています。
最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔、多宝塔、層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には露盤と階段状の刻み(普通は6段)を持つ笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)あるいは「耳」と呼ばれる突起がある。笠の下面も階段状(2段)に刻む。笠の下の四角柱の部分は、塔身(とうしん)という。その下の部分は基礎と呼ばれ、上部を階段状(2段)に刻んで塔身を受ける。隅飾の内側の曲線を二弧ないし三弧に刻むものもあり、またその側面に月輪を陽刻し、その中に種子(しゅじ・種字とも)を刻むものもある。塔身にはしばしば仏坐像や月輪に囲われた種子を刻む。手の込んだものではその月輪をさらに蓮華座で受ける。また基礎の四方の側面には区画の中に格狭間(こうざま)を一個刻む例が多い。さらに基礎石の下に格狭間を伴った返花座を置くものもある。
次に各年代でどの様な特徴があるのかについて述べる。
(1)鎌倉時代 1192-1338 鎌倉幕府滅亡は1333年
隅飾突起(すみかざりとっき)が直立。返花座(かえりはなざ)又は蓮華座の彫りが重厚で、相輪が細かい。大型で且つ整美な安定感が見られる。
(2)南北朝時代 1338-1393 1338年足利尊氏が征夷大将軍
隅飾突起が反る。相輪が不安定になり伏鉢が大きい
(3)室町時代(安土桃山時代も含む) 1393-1603 南朝の元号が無くなった時点とした
隅飾突起の反りが進み、伏鉢がますます大きくなる。本体の形式が崩れだし、重厚さは陰をひそめる。
(4)江戸時代 1603-
隅飾突起が反り返り、開いている。請花・伏鉢は彫刻が過剰気味になる。宝珠が尖り九輪は皿を重ねた程度である。
神戸市内の宝篋印塔について各年代ごとの代表的な宝篋印塔を写真紹介していきます。
(1)鎌倉時代
宝篋印塔は平安時代に出現しているが全国的にもその遺構は少ない。神戸市内で一番古い宝篋印塔は垂水区の遊女塚の宝篋印塔(1337)である。
少し詳しい解説(小生のブログ) 宝篋印塔(遊女塚)
(2)南北朝時代
明王寺の追儺式の一部で宝篋印塔も紹介しています。明王寺の追儺式 on 2013-1-4
神戸市内には他に神戸市垂水区西名の猿倉峠の宝篋印塔に暦応4年(1341)の銘が確認されておりますが写真がないので名前の紹介のみとしておきます。
詳細の解説は久昌寺
詳細は妙法寺 宝篋印塔
北区山田町藍那にある伝紫式部の塔と言われる宝篋印塔も永和2年(1378)7月14日の銘が刻まれています。
詳細は伝紫式部の塔 on 2012-4-2
康暦2年(1380)12月8日 詳細は方見堂と石造宝篋印塔
(3)室町時代
詳細は如意寺
(4)江戸時代
刻銘されているがメモがないので後日確認予定。