神戸オリーブ園で日本初のオリーブオイルの採取に成功 on 明治15年(1882) |
(後の神戸オリーブ園)であったのをご存知ですか。
大方の人は小豆島でオリーブが初めて植栽されていると答えるでしょうが違います
小豆島での植栽は明治41年(1908)でしたがそれより約30年早い
明治13年(1880)パリ万博日本事務局副総裁の松方正義(後の総理大臣)や
事務官長の前田正名が2000本ものオリーブをフランスより輸入し、上記の
歓農局三田育種場付属植物園に植えました。
明治15年(1882)には福羽逸人(ふくばはやと)の尽力で果実を収穫しオリーブオイル
の採取に成功
神戸オリーブ園は目的が曖昧で明治29年(1896)閉園となってしまいました。
兵庫県加古川市の宝蔵寺と神戸市の湊川神社に今でも1本ずつ残っています。
明治19年(1886)頃、多木化学の創業者多木久米次郎が苗木として譲り受け
菩提寺の宝蔵寺に植えられました。約130年の樹齢を誇り日本最古のオリーブの木
とされています。
前田正名についてWikipediaより引用紹介します。
前田 正名(まえだ まさな、嘉永3年3月12日(1850年4月23日) - 大正10年(1921年)8月11日)は、明治の官僚。男爵。北海道阿寒町(現在の釧路市阿寒町)に財団法人前田一歩園の基を設立し、阿寒湖畔3,859ha、富士朝霧高原300ha、宮崎200haを明治政府から払い下げを受け植林事業を行うほか保護を図るほかに、木材の原料を活かして釧路市に北海道最初の製紙パルプ工場を誘致設置するなど、自然保全と日本の殖産に貢献した。
父は薩摩藩医前田善安の6男。兄に前田正穀(献吉)がいる。明治期における殖産興業政策の実践者としてしられ、「布衣の農相」とも呼ばれた。妻は大久保利通の姪・いち(利通の妹・石原みねの次女)。
次男の正次の妻の前田光子は、元宝塚歌劇団の文屋秀子(ふみや ひでこ、17期生)。後に「阿寒の母」と呼ばれた。
略歴
鹿児島に生まれる。内務省勧農局に出仕し、1869年(明治2年)には在フランス総領事モンブラン伯爵に随行してパリへ留学。しばらくは総領事館となったモンブラン邸に寄宿した。1876年(明治9年)に帰国し、内務省御用掛、翌年には三田育種場を開設。1878年(明治11年)にはパリ万国博覧会事務館長、1881年(明治14年)大蔵省・農商務省の大書記官になって理事官に進む。在職中に国内産業の実情を調査して、殖産興業のために報告書を作り、「興業意見」全30巻とまとめて提出。明治21年6月、山崎直胤の後任で山梨県知事として赴任。在職期間が短いため目立った政策は見られないが、栗原信近らと殖産興業を推進し、道路整備や河川改修、甲州葡萄の普及などを行っている(後任は中島錫胤)。
翌1889年(明治22年)10月には農商務省農務局長と東京農林学校長を兼任し、1890年(明治23年)農商務次官となるが、農商務相陸奥宗光と対立して下野。同年9月に貴族院勅選議員。その後、元老院議官を務め、五二会など興した。
1898年(明治31年)宮崎県の開田事業とともに、北海道・釧路で最初のパルプメーカー前田製紙合資会社を設立。1904年(明治37年)8月22日に二度目の貴族院勅選議員となる[1]。1907年(明治40年)阿寒湖畔に居を構え、同年、武富善吉とともに釧路銀行を設立、北海道東部の開発に貢献した。死の同日、男爵を授けられた。
前田正名の系図はこちら
http://episode.kingendaikeizu.net/48.htm
前田正名に関する本
(神戸市立図書館蔵)
https://www.lib.city.kobe.jp/opac/opacs/find_detailbook?kobeid=CT%3A0301043194&mode=one_line&pvolid=PV%3A0006010716&type=PvolBook