2014年7月2日の毎日新聞朝刊28面に表題のような記事が掲載されました。
奈良文化財研究所の研究紀要に掲載された内容をまとめたものである。
平城宮跡の散歩道というサイトで上手くまとめられていますのでリンクを
貼らせていただきました。
西大寺は孝謙天皇(称徳天皇)が、父である聖武天皇の東大寺を上回る大伽藍を造立したい
との夢を込め、さらに恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の戦勝祈願のため、四天王像の造立も含め
天平宝字8年(764)に発願し建立された。
その字域は約48haであった。現在の西大寺の面積の3.5倍程度の壮大なものであった。
旧境内の西大寺の面影を残し現存するのは五重塔基壇址だけである。
以下、毎日新聞記事より引用
創建時の金堂院は弥勤金堂、薬師金堂、中門(いずれも現存しない)が南北直線上に並ぶのが特徴で、回廊が巡っていた。宅地開発に伴う今回の調査地は、弥勒金堂の東側の回廊の北東角近くと、薬師金堂の西側の軒廊と回廊の接続部分にあたる2カ所計約723平方ⅿ。礎石を据え付けた穴や、雨水を流す溝が確認され、緑釉のかかった瓦、土器、木簡などが出土したという。
金堂院の東西幅は、回廊の外側柱の中心間で329尺(約97ⅿ、1尺29.6㎝で計算)と分かった。「西大寺資財流記帳」(780年)には建物や門を除く回廊外周1172尺の記述があり、南北は394尺(約116.6ⅿ)となり、未調査の弥勒金堂、中門の位置が推定できる。
また出土状況から、薬師金堂が建てられた後、瓦ぶきで中央に壁のある構造の軒廊や、回廊が建てられたことも分かった。金堂院の東側では、資財帳に記録のない建物の礎石跡が新たに見つかった。
旧境内の詳細配置については下記サイトが詳しい。