神奈川新聞が表題の記事を写真入りで紹介されています。(下にリンク)
ジョセフ・ヒコ(1837-1897)の命日は明治30年( 1897) 12月12日で奥様の
濱田 鋹子(ちょうこ)さんと共に青山の外人墓地に眠っています。
上記の墓前祭は青山の外人墓地で行われたものです。
青山墓地の浄世夫彦之墓については2014年3月14日に訪問してブログを書いて いますのでリンクしておきます。
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)を顕彰するという意味で過去に書いた
ブログの一部にリンクしていきます。
ジョセフ・ヒコの一生
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は日本で最初に民間新聞を発刊したことで知られています。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)でここではメインとしてこの名前を踏襲するが、アメリカ彦蔵(アメ彦)、浜田彦蔵、ジョセフ彦、浜田彦太郎、墓碑に彫られた浄世夫彦などの別名もある。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航(2度目)しそして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。当時は尊皇攘夷思想が支配しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、ジョセフ・ヒコは身の危険を感じて文久元年(1861)9月17日に3度目のアメリカに戻った。文久2年 (1862)10月13日、横浜に帰り再び米国領事館通訳の仕事を始めるが、文久3年( 1863) 9月30日、領事館を辞任し商売を始める。この年の秋には漂流記を上梓。さらに元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応2年( 1866) 12月25日(新暦換算)、横浜を去り長崎に向うここで伊藤博文や木戸孝充と知り合いとなる。慶応4年(1868)9月22日生まれ故郷の古宮に帰郷した。東京を中心に活動した。以下の略歴を略す。明治30年( 1897) 12月12日、心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる。
ジョセフ・ヒコのはじめ物語
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。
1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
教会である。
2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
1857年 11月25日
1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。
3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
1858年6月30日
4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)
5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流
6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日
7)初めての国立銀行条例をつくる。
1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)
と協働でつくった。
8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
1884年12月
9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
ジョセフ・ヒコの生家
栄力丸の漂流&救助
ジョセフ・ヒコの年表
両親の墓(蓮花寺)
神戸での住居跡碑
「本邦民間新聞創始者 ジョセフ・ヒコ氏居址碑」昭和10年 (1935) 除幕
銅像、記念碑(播磨町)
記念碑(神戸市)
記念碑(横浜市)
ジョセフ・ヒコが小惑星の名に
アメリカ領事館跡(本覺寺)
ヒコの似顔絵
ジョセフ・ヒコに関する書籍
「新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコ(1837~97)を
あしらったマンホールの蓋が2018年12月21日、出身地の
(朝日新聞)