2019年 12月 06日
新聞の父 ジョセフ・ヒコの汚水マンホール in JR土山駅南口 on 2019-11-30 |
2019年11月30日、JR土山駅南口のバス停付近に今年の2月に設置された
播磨町出身の偉人「ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)1837-1897」をデザイン
した下水道マンホールの写真を撮りましたので紹介します。
上の写真が播磨町の偉人「ジョセフ・ヒコ」をデザインした下水道マンホール
ジョセフ・ヒコは横浜の元居留地141番で、 1864(元治元)年6月28日,
「海外新聞」を発刊した。
ジョセフ・ヒコは, リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。
リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ
大なるを体得し, 開国したばかりの祖国のため, 日本最初の新聞を創刊し,
「童子にも読める」新聞精神を提唱した。
読みやすく, 判りやすい新聞を, 創世記の日本の新聞界に植えつけた
新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允, 伊藤博文, 坂本龍馬など多くの人びとに 民主政治を
伝えた彦は, 民主主義の先駆者として, およそ新聞を読む ほどの人々の
心の奥に残る文化の恩人であった。
「海外新聞」を発刊した。
ジョセフ・ヒコは, リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。
リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ
大なるを体得し, 開国したばかりの祖国のため, 日本最初の新聞を創刊し,
「童子にも読める」新聞精神を提唱した。
読みやすく, 判りやすい新聞を, 創世記の日本の新聞界に植えつけた
新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允, 伊藤博文, 坂本龍馬など多くの人びとに 民主政治を
伝えた彦は, 民主主義の先駆者として, およそ新聞を読む ほどの人々の
心の奥に残る文化の恩人であった。
上記文章は横浜の中華街の近くに設置の新聞誕生の地のモニュメントに
書かれた文章です。
書かれた文章です。
詳細は下記ブログで記載
上の写真は以前から播磨町で使用されている下水道マンホール。
ジョセフ・ヒコの略歴を下に記しておきます。
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は日本で最初に民間新聞を発刊した
ことで知られています。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎
天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。
嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)
に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。
1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年
(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航し
そして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。
慶応4年(1868)9月22日再び日本に帰還し、東京を中心に活動した。
上記HPには岸田吟香(岡山県美咲町旧旭地区出身)の生涯のついて書かれています。
ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。
神戸には明治8年(1875)から明治21年(1888)まで居住した。
ジョセフ・ヒコは日本での移住地は播磨町で13年、長崎で3年、神戸で12年、
東京で10年を過ごしています。残りの23年はアメリカで過ごしていることになります。
生田区中山手通六丁目にあるマンション前の植え込みの中にジョセフ・ヒコの
旧居宅跡の碑が建てられています(1935(昭和10)年神戸市が建立)。
ジョセフ・ヒコは神戸時代にこの辺りに12年間住んでいました。
明治30年(1897)12月12日、心臓病の為東京の自宅で死去61歳であった。
ことで知られています。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎
天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。
嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)
に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。
1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年
(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航し
そして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。
しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。
当時は尊皇攘夷思想が支配しており外国人だけでなく外国人に関係した者も
その過激派によって狙われる時代であったため、ジョセフ・ヒコは身の危険を
感じて文久元年(1861)10月20日にアメリカに戻った。
慶応4年(1868)9月22日再び日本に帰還し、東京を中心に活動した。
英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を横浜で発刊した。
これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。
岸田吟香については記念館がありそちらのHPが詳しい。上記HPには岸田吟香(岡山県美咲町旧旭地区出身)の生涯のついて書かれています。
ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。
神戸には明治8年(1875)から明治21年(1888)まで居住した。
ジョセフ・ヒコは日本での移住地は播磨町で13年、長崎で3年、神戸で12年、
東京で10年を過ごしています。残りの23年はアメリカで過ごしていることになります。
生田区中山手通六丁目にあるマンション前の植え込みの中にジョセフ・ヒコの
旧居宅跡の碑が建てられています(1935(昭和10)年神戸市が建立)。
ジョセフ・ヒコは神戸時代にこの辺りに12年間住んでいました。
明治30年(1897)12月12日、心臓病の為東京の自宅で死去61歳であった。
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。
1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
教会である。
2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
1857年 11月25日
1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。
3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
1858年6月30日
4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)
5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流
6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日
7)初めての国立銀行条例をつくる。
1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)
と協働でつくった。
8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
1884年12月
9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
ありますので紹介します。
1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
教会である。
2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
1857年 11月25日
1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。
3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
1858年6月30日
4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)
5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流
6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日
7)初めての国立銀行条例をつくる。
1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)
と協働でつくった。
8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
1884年12月
9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
by seiyo39
| 2019-12-06 17:15
| 神戸以外の兵庫県
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