富岡製糸場 訪問記 |
高崎駅より上州電鉄にて出発
下の写真は富岡製糸場の最寄り駅上州電鉄の上州富岡駅です
下の写真は3号館。左の写真は入退場口の玄関(正面は東繭倉庫)
下の写真及び左の写真操糸工場の内部
下の写真は国立東京博物館蔵の明治時代の操糸工場の内部。現在も明示5年(1872)に
建設された建物が残っている。
構造はトラス式で日本の寺院建設には見られなかったまったく新しい建築の様式である。
下の写真は操糸工場の外観
左の写真は東繭倉庫 右は2号館。東繭倉庫は明治5年(1872)に建設された。日本で最初のレンガを使用した建物である。またレンガ同士を接着する漆喰の役目には石灰と膠が使用
されている。レンガ積みはフランス式(フランドル積み)である。
数十万個のレンガは甘楽福島で製造された。
左下の写真は西繭倉庫 右下はブリュナ館(首長館)
ブリュナは明治3年(1870)6月に計画書(見込書)を提出したがその中に
ヨーロッパ人を雇うことを明示し、月給の金額も示された。
当時の歴史背景:
嘉永6年(1853)6月3日ペリーが浦賀沖に錨をおろしその後徳川幕府に米の
国書を受理させた。その翌年ペリーは再来航し、
安政1年(1854)3月31日12か条からなる日米和親条約が調印され、下田と
函館が開港した。
さらに安政5年(1858)7月29日日米修好通商条約及びオランダ、英国、ロシア
さらに翌年安政6年(1859)9月にフランスと安政の5カ国条約を締結した。
これらは、天皇の勅許なしに井伊大老が独断専行したのと1858から1859年に
安政の大獄で総勢100名の一橋派の皇族、公卿、諸侯、尊王志士を処刑した為
水戸浪士が桜田門外にて井伊大老を暗殺。(万延元年(1860)3月3日)
これにより神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の開港と江戸、大坂の開市が
行われることとなり貿易が始まった。
その当時の輸出品のトップは生糸で2番目がお茶であった。
明治元年(1868)四境戦争、戊辰の役などで勝利した明治新政権は「富国強兵」
と「殖産興業」を掲げ新しい国づくりを目指していました。
輸出により外貨を獲得し、欧米諸国の進んだ技術を取り入れて文明開化を信念を
もって推し進めていました。
生糸は欧米の生産地であるフランス、イタリアが蚕の病気(微粒子病)で大打撃を
受けていた時期でもあり、タイミングも良かったと考えました。
明治3年(1871)明治政府(大隈重信、伊藤博文らが中心)は生糸を生産する工場を建設することを決定し、直ちにフランスの生糸検査人ブリュナに適地を選択させ、富岡に
世界でもトップクラスの近代的な製糸製造施設が建設されることとなった。
富岡製糸場の役目:
富岡製糸場の役目は次のとおりであった。
(1)全国のモデル工場であること
(2)建設/製造ノウハウを他の地域に応用伝授すること
富岡製糸場で修業を積んだ技術者、工女が地元に帰り指導的な立場で活躍
同じ内容」ですがWebでまとめたものです。