太閤堤現地説明会 |
翌日9月6日の新聞に掲載された。私の場合朝日新聞、神戸新聞で知った。
9月8日(土)10:00から15:00に現地説明会があるということで宇治へ行った。
宇治は私の出生地であり小学校5年までの約11年間を過ごしたところである。
上の写真の上部は石出(いしだし)と言われるもので護岸を守るためのものである。
当日配布された資料図3「宇治郷総絵図」によるとこの付近に2箇所の石出が見られる。
水流で破損された様子もよくわかる。
遅れましたが場所は宇治市菟道丸山で菟道稚郎皇子(うじのわきいらつこ)の墓と宇治川右岸の間で地図はこちら
菟道稚郎皇子は応神天皇の皇太子
当日配布資料より簡略して太閤堤について説明いたします。
1.発掘のきっかけ
今回の発掘調査は京阪宇治駅西側一帯に計画された土地区画整理事業に伴うもので弥生
時代から古墳時代にかけての集落遺跡を中心とする乙方遺跡保護のため文化財保護法に
基づき実施されましたこの中で宇治川寄りの調査区で今まで存在の判らなかった宇治川
旧護岸遺跡(太閤堤の一部)が見つかった。
2.発掘された護岸遺跡の内容
幅5.5m、高さ2.2mの堤が南北に75mの宇治川右岸護岸施設で江戸時代後期の洪水で
埋没して陸化していたため今まで存在が判らなかった。
護岸の構造は傾斜30度の法面の下端に径20cmの松杭を打ち、割り石を数段積み上げて
水流に備え、上半分から天端(馬踏:ばふみ)にかけて割石をきれいに貼り付け化粧して
います。石出は基部の幅9m、長さ8.5mの平面台形形状の石垣積みです。
この護岸工事に使用された石は粘板岩で3kmほど上流の天ヶ瀬ダム付近の川岸から
切り出され船で運搬されたものと考えられます。
昭和54年に見つかった填島堤遺跡でも同様の石が使用されています。
3.太閤堤について
「太閤堤」とは、豊臣秀吉が伏見築城に伴い、宇治川の川筋付け替えに関係して築いた堤防
のことで宇治から向島までの「填島堤」、宇治から小倉までの「薗場堤」、小倉から向島までの
「小倉堤」の計12Kmの総称として一般に用いられています。
太閤堤の築堤開始は「村井重頼覚書」などによれば文禄3年(1594)のことで、宇治川を
小椋池から切り離し、向島まで延長する填島堤から工事が始まったとされています。
今回見つかった右岸の護岸に関する記録は今のところ見つかっていません。
当日写真展示されていたものの写真で上空からの旧護岸遺跡(太閤堤の一部)全体が見られます。
神戸新聞オンラインの太閤堤の記事
読売新聞オンラインの記事の太閤堤の記事
朝日ComのオンラインNews記事による太閤堤
京洛主義の記事より