須磨の関 |
関屋跡」と書かれています。
出土された場所は東方100mに暗渠となった千森川と旧西国街道の交叉する地点であった。
すなわち今の関守跡の候補地の一つである関守稲荷神社とは離れた位置からの出土である。
この石碑が事実であれば関屋跡(櫓台)が千森川の東に一時期あったことになる。
須磨の関がどこにあったかは3説あり、現光寺・関守稲荷神社・多井畑厄神のいずれかの近くに在ったという説である。
平安末期の歌人源兼昌は「淡路島 通う千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守」の歌を詠み小倉百人首などに取り上げられた。
この歌はのちの追懐であって、そのとき関はすでになかったようです。
下は関守神社の写真です。
須磨の関に関係する歌を選択したのが下の写真の看板にされていた。