平重衡(たいらのしげひら)の捕らわれの松 |
あります。まず現地の平重衡とらわれの松跡説明書きより説明文を引用させていただきます。
「寿永3年(1184)2月7日源平合戦の時生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れて来たが源氏の捕虜となり土地の人が哀れに思い名物の濁酒すすめたところ重衡はたいそう喜んで「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨でのむこそ 濁酒なれ」 の一首を詠んだ。のち鎌倉に送られ処刑された。 」
住所は神戸市須磨区須磨寺町1-13 地図はこちら
インタネットなどで平重衡(1157~85)とらわれの松について調べてみました。
上記で引用した鎌倉に送られ処刑されたと記述されていますが、正確には鎌倉に送られたあと
輿福寺・東大寺衆徒の要求で奈良に送られる途中、文治元年(1185)6月23日に木津で処刑されたが正しい記述だと思います。
平重衡は父平清盛と母平時子の五男として保元2年(1157)生まれました。小さい頃より文武に優れ、治承4年(1180)5月、以仁王・源頼政を宇治で討ったのをかわきりに、同年12月には反平氏勢力の拠点である興福寺・東大寺南都攻撃の総大将となり、大仏殿を焼きました。
翌年の養和元年(1181)3月、墨俣川の戦で源行家を破ります。平家が都おちをした後も、寿永2年(1183)10月の水島合戦、11月の室山合戦で源氏側を撃破しています。
このように常勝の大将の平重衡が唯一敗れたのが寿永3年(1184)2月7日の一の谷の戦い
であった。一の谷の戦いで平重衡は副大将として東門生田の森を大将知盛とともに守っていたが源氏の優勢に耐え切れず須磨の関をめざして落ち延びようとしたが源範頼の家来、庄三郎家長によって捕らえられた。
妻は藤原邦綱の娘輔子(大納言典侍)で平重衡が処刑されるときの護送の途中京都の醍醐日野の里で別れをおしんだと言われています。官位は正三位にまで昇り三位中将と称されている。
下の写真は須磨寺駅を出たところの知恵の道と呼ばれている須磨寺に通ずる商店街です。
右手のほうに平重衡とらわれの遺跡があります。
下の写真は平重衡とらわれの遺跡の石碑。
須磨寺駅前の平重衡とらわれの石碑と小祠