2008年 01月 16日
頼政薬師寺 |
本日は通称頼政薬師寺(単に薬師寺とも言われる)と呼ばれている浄福寺を紹介します。
山号を上野山といいます。須磨寺の末寺で、西須磨の旧家前田氏の建立と伝えられる。
ご本尊は聖徳太子作の薬師如来でその両脇に十二神将が座る。久寿の頃(1154~1155)
源三位頼政が再興したことから頼政薬師といわれる。本堂と脇士十二神将は尼崎藩主青山氏の寄進と伝えられている。西須磨地区は尼崎領であった。明治以前浄福寺では毎年1月8日に薬師統人といってこの里に集まる儀式があり、座敷に松竹梅の三宝を飾りその上座には薬師如来をまつり全員がかみしもを着用し謡曲で興がそえられた。この儀式に参加することではじめて村人と認められた。夜には鬼追式が行われ、鬼踊りと称して仮面をかぶった鬼が里人を狂ったように追い回したという。この鬼追い式は非常に有名で当時の須磨一番大事な祭りであったと言われている。最近は形を変えてこれらの伝統行事が受け継がれ、西須磨協議会会員が中心になり、同じ1月8日に西須磨地域の繁栄と家内安全を祈願している。
平成7年(1995)1月17日午前5時46分に起きた阪神・淡路大震災で倒壊した本堂は平成11年11月再建された。 -----以上説明書きより要約-----
場所は山陽電鉄の須磨寺駅をおりて北東へ2分くらいか?
住所:神戸市須磨区桜木町1 地図はこちら。
平等院で没したあの源頼政に関係した寺と思うと、宇治市生まれの私との縁を感ずる次第です。
下の写真は現地にあった説明書き
今から833年前の治承4年(1180)の5月26日、新暦では6月20日
源頼政は高倉宮以仁王を報じて平家追討の兵をあげました。
しかし宇治川で平知盛の大軍に追撃され、宇治川において流れ矢に傷ついた源頼政は
軍扇を開き「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」と
辞世の一首を残し宇治平等院の扇の芝付近で自害したと伝えられています。
この戦い(宇治橋の戦い)を機に源氏の棟梁源頼朝が挙兵し
平家滅亡のきっかけとなる事件であった。
詳細は下記サイト
http://seiyo39.exblog.jp/20619067/
http://seiyo39.exblog.jp/12590837/
西須磨の薬師堂であった浄福寺の名残として、毎年1月8日に
地元の繁栄と住民の家内安全を祈る儀式が須磨寺と現光寺の住職を迎え
行われています。
福祥寺(須磨寺)の当山歴代によれば源頼政が多田源氏持仏であった薬師如来を
須磨寺に安置し従来の観音菩薩像とともに本尊とし、寺領3か所を寄進して
朝廷の承認を得た。鎌倉時代に須磨寺は須磨村の有力者の前田氏の所望により
薬師像を浄福寺に付与し再興したとのこと。
須磨寺当山歴代の書き下し文を添付しておきます。
山号を上野山といいます。須磨寺の末寺で、西須磨の旧家前田氏の建立と伝えられる。
ご本尊は聖徳太子作の薬師如来でその両脇に十二神将が座る。久寿の頃(1154~1155)
源三位頼政が再興したことから頼政薬師といわれる。本堂と脇士十二神将は尼崎藩主青山氏の寄進と伝えられている。西須磨地区は尼崎領であった。明治以前浄福寺では毎年1月8日に薬師統人といってこの里に集まる儀式があり、座敷に松竹梅の三宝を飾りその上座には薬師如来をまつり全員がかみしもを着用し謡曲で興がそえられた。この儀式に参加することではじめて村人と認められた。夜には鬼追式が行われ、鬼踊りと称して仮面をかぶった鬼が里人を狂ったように追い回したという。この鬼追い式は非常に有名で当時の須磨一番大事な祭りであったと言われている。最近は形を変えてこれらの伝統行事が受け継がれ、西須磨協議会会員が中心になり、同じ1月8日に西須磨地域の繁栄と家内安全を祈願している。
平成7年(1995)1月17日午前5時46分に起きた阪神・淡路大震災で倒壊した本堂は平成11年11月再建された。 -----以上説明書きより要約-----
場所は山陽電鉄の須磨寺駅をおりて北東へ2分くらいか?
住所:神戸市須磨区桜木町1 地図はこちら。
平等院で没したあの源頼政に関係した寺と思うと、宇治市生まれの私との縁を感ずる次第です。
今から833年前の治承4年(1180)の5月26日、新暦では6月20日
源頼政は高倉宮以仁王を報じて平家追討の兵をあげました。
しかし宇治川で平知盛の大軍に追撃され、宇治川において流れ矢に傷ついた源頼政は
軍扇を開き「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」と
辞世の一首を残し宇治平等院の扇の芝付近で自害したと伝えられています。
この戦い(宇治橋の戦い)を機に源氏の棟梁源頼朝が挙兵し
平家滅亡のきっかけとなる事件であった。
詳細は下記サイト
http://seiyo39.exblog.jp/20619067/
http://seiyo39.exblog.jp/12590837/
西須磨の薬師堂であった浄福寺の名残として、毎年1月8日に
地元の繁栄と住民の家内安全を祈る儀式が須磨寺と現光寺の住職を迎え
行われています。
福祥寺(須磨寺)の当山歴代によれば源頼政が多田源氏持仏であった薬師如来を
須磨寺に安置し従来の観音菩薩像とともに本尊とし、寺領3か所を寄進して
朝廷の承認を得た。鎌倉時代に須磨寺は須磨村の有力者の前田氏の所望により
薬師像を浄福寺に付与し再興したとのこと。
須磨寺当山歴代の書き下し文を添付しておきます。
by seiyo39
| 2008-01-16 07:52
| 神戸情報
|
Comments(0)