小泉八雲と神戸 |
明治27年(1894)神戸に来て、英字新聞「神戸クロニクル」紙の記者となるが、健康を害してすぐ退社した。しかし、彼は1年9ヶ月間神戸で執筆活動をした後東京へ移り住んだ。この時期の代表作のひとつに「日本人の微笑」がある。
月給は熊本五高で200円であったが、月給100円の神戸での新聞記者生活となったもので期するものがあった訳ですが、神戸での生活は彼が思い描いたいたものではなかったようです。
また、約2年間に神戸で3回も転居しているようです。
居留地での外国人の行動を批判的に捉えた数少ない外国人でもあります。
例により県労働センターの玄関横の石碑の説明文より引用させてもらいます。
「小泉八雲と神戸
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本の精神文化や民俗、伝統を心から愛し、その作品を通じて、日本を広く世界に紹介、明治の文豪として偉大な足跡を残したが、八雲と神戸との出会いは、後に兵庫県県知事となった服部一三との交友による。
八雲は松江、熊本で教壇に立った後、明治二十七年神戸に移り住み、英字新聞「神戸クロニクル」の記者として文筆を振るう傍ら文壇生活に入った。明治二十九年に帝国大学講師として東京に転居するまでの間、中央区内の当敷地内に居宅を構え、「心」、「仏の畑の落穂」などを執筆。小泉八雲と改名し、日本に帰化したのもこの時期である。
平成六年は、八雲が神戸に住んでから百年目にあたる。これを記念してここに小泉八雲の道徳を偲び、神戸との関わりをこの碑にとどめる。」

上の写真の小泉八雲像を拡大したのが下の写真です。
