2008年 02月 06日
舞子砲台跡 |
明石砲台跡についていつものように説明書きより引用させていただきます。
写真は2008-1-26撮影。
「幕末に外国船の侵攻に備えて、文久3年(1863)に幕府の命を受けて、勝麟太郎(海舟)の
指導のもと、明石藩が築造した砲台です。対岸の淡路島にある松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船をはさみ撃ちにしたと考えられます。
発掘調査の結果、現在の護岸の石垣が当時のものであり、砲台の石垣全体が埋まっている
こともわかりました。
砲台の形式は稜堡式(りょうほしき)と呼ばれ石垣の平面形がW字形となる西洋の要塞を参考にして設計されています。すべて石で積まれた例は国内で他になく、大変貴重なものです。
大きさは東西約70mで、現在残っている石垣は下層部分にあたり、高さは約6mです。
幕末から明治初め頃の写真資料から、もともとの高さは海岸から約10mであったと推測
できます。」
またこの砲台は明石藩の砲術指南役の荻野家により管理されていました。当時、明石藩は松江から垂水まで9砲台を築いたが、舞子以外は土塁の簡単なものであった。舞子砲台と同じ
時期に、和田岬砲台、西宮砲台などの立派な砲台が着工されています。



平成25年(2013)3月兵庫県教育委員会から出された「兵庫県の台場・砲台」
の巻頭写真図版3に明石藩舞子台場の写真がありましたので参考として添付
(下の写真)

平成15年から4回発掘調査。海岸護岸の石垣が築造当時のまま発掘された。
幕府から明石藩に1万両が貸与され建設された。
平成19年2月に国の史跡に指定。
石垣は地下に埋設保存されています。
参考文献
1)橋本小六(海関)「明石名勝古事談」第3本&第11本(西村勇次)
2)「歴史と神戸」203号 舞子砲台跡 眞野 修 神戸史学会 1997
3)神戸市教育委員会編「舞子砲台跡 第1次~第4次発掘調査報告書」2006
写真は2008-1-26撮影。
「幕末に外国船の侵攻に備えて、文久3年(1863)に幕府の命を受けて、勝麟太郎(海舟)の
指導のもと、明石藩が築造した砲台です。対岸の淡路島にある松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船をはさみ撃ちにしたと考えられます。
発掘調査の結果、現在の護岸の石垣が当時のものであり、砲台の石垣全体が埋まっている
こともわかりました。
砲台の形式は稜堡式(りょうほしき)と呼ばれ石垣の平面形がW字形となる西洋の要塞を参考にして設計されています。すべて石で積まれた例は国内で他になく、大変貴重なものです。
大きさは東西約70mで、現在残っている石垣は下層部分にあたり、高さは約6mです。
幕末から明治初め頃の写真資料から、もともとの高さは海岸から約10mであったと推測
できます。」
またこの砲台は明石藩の砲術指南役の荻野家により管理されていました。当時、明石藩は松江から垂水まで9砲台を築いたが、舞子以外は土塁の簡単なものであった。舞子砲台と同じ
時期に、和田岬砲台、西宮砲台などの立派な砲台が着工されています。



平成25年(2013)3月兵庫県教育委員会から出された「兵庫県の台場・砲台」
の巻頭写真図版3に明石藩舞子台場の写真がありましたので参考として添付
(下の写真)

幕府から明石藩に1万両が貸与され建設された。
平成19年2月に国の史跡に指定。
石垣は地下に埋設保存されています。
参考文献
1)橋本小六(海関)「明石名勝古事談」第3本&第11本(西村勇次)
2)「歴史と神戸」203号 舞子砲台跡 眞野 修 神戸史学会 1997
3)神戸市教育委員会編「舞子砲台跡 第1次~第4次発掘調査報告書」2006
by seiyo39
| 2008-02-06 08:06
| 神戸情報
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