2008年 02月 11日
宇治 恵心院と庭の水仙 |


2月10日(日)に宇治の恵心院を訪問しましたので紹介します。上の写真は表門と本堂。
前日に降った雪がまだ残っていていつもと違った雰囲気でした。
以下入口の宇治市教育委員会の説明書きより要約引用させていただきます。
「宇治市指定文化財 木造十一面観音立像 恵心院蔵
像高 91.5cm 平安時代 平成3年3月30日指定
恵心院は弘仁十三年(822)弘法大師(空海)の創建になるという。初め寺名は唐の 青龍寺に似ていることから龍泉寺と呼ばれたが平安中期1004-1011)に恵心僧都が再興して、以後寺号を恵心院と称するようになった。
その後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて諸伽藍の整備が行われたと伝えられている。現在は本堂と表門のみを残している。
木造十一面観音立像は、恵心院の本尊である。ほぼ直立に近い姿で太い頸、脇を締めた体型などやや重厚な感じを残している点や、衣文の数が少なく簡素な表現を示しているあたりに、十世紀頃の典型的な作風を見ることができる。
宇治に残る数少ない十世紀の作風として貴重である。
また恵心院発行の「恵心院由緒」より下記のとおり引用させていただきます。
「当院は「真言宗智山派」に属する宇治古刹「朝日山恵心院」であります。
九世紀初期(平安時代)すなわち第五十二代、嵯峨天皇の弘仁十三年(西暦822年)弘法大師(空海)の開基であります。
此の場所が、嘗て大師入唐の際、学びし唐の青龍寺の地形(裏に山丘、前に大河あり)に似たるを以って『龍泉寺』と称されたのであります。その後、種々の戦火にあい、堂宇破却したるを、寛弘二年(西暦一〇〇五年)比叡山横川の恵心僧都(源信)によって再興され、寺号を「朝日山恵心院」と改め称されたのであります。
江戸時代に入って、淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍の整備がなされたが、数度の兵乱にかかり破却衰滅していたが真言宗の一沙門によって中興され、現在まで法灯を守護している。
天正十七年(西暦一五八九年)豊臣秀吉公、並びに徳川家康公より三十石の御朱印を給わり、堂塔完備境内荘嚴を極め、当地方に於ける真言宗の大道場として繁栄したが、今は僅かに永禄二年(西暦一五五九年)造営の本堂及び楼門を残すのみとなりました。 」
下の写真は庭に咲いていた水仙の写真と恵心院より朝日焼工房と朝霧橋を臨んだものです。



最後になりましたが、「往生要集」の著者の恵心僧都(源信)は源氏物語の宇治十帖の中で浮舟を助けた「横川の僧都」のモデルと言われています。 横川はよかわと読みます。
Eshin-in temple is located in the east bank of the Uji River, Eshin-in Temple, which used to be called Ryusen-ji originally found in 822.
It is said to have been reestablished in 1005(the middle of the Heian period)by the Eshin Buddhist priest Genshin who is author of Essentials of Pure Land Rebirth called “Oujoyoshu,” who named it Eshin-in. Genshin is said to have been the model for the heroic Yokawa no Sozu (Priest Yokawa), who rescued Ukifune, one of the heroines of the Ten Uji Chapters of “The Tale of Genji.” Only the main hall build in 1559 and the front gate remain and a wooden standing image of the Eleven-headed Kannon carved in 10th century is enshrined in the main hall.
Eshin-in is also well known as the “Flower Temple” because many kinds of flowers planted by the chief priest himself in this temple
by seiyo39
| 2008-02-11 18:16
| 京都情報
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