2008年 03月 26日
現光寺 |
下の写真は源氏寺碑である。(2008-2-6撮影)
源氏物語の主人公光源氏が従者数人と京より須磨に蟄居していたところと古来より伝えられ
ています。この石碑はもともと現在の場所より北西約20mはなれた場所に建てられていま
したが平成7年(1995)1月17日阪神淡路大震災後、都市計画道路千森線の整備に
あわせて新しく平成14年(2002)再建された現光寺の門前に移されました。

下の写真は現光寺の本堂です。
謡曲「須磨源氏」は、日向国の社宮藤原興範が、伊勢参宮の途次、須磨の浦に立ち寄ると、
老樵夫(きこり)賀桜の木陰から現れ、光源氏一代の略歴を物語り、自分はその化身であることをほのめかす。その夜、旅まくらの興範の前に、菩薩となっている光源氏が、気高く優雅な姿で天下り、在りし日の須磨のくらしを回相しつつ青海波の舞を舞って夜明けと友に消えうせるという典雅な曲である。
須磨は観月の名所として名高く平安時代の王朝ロマンの主人公光源氏が、複雑なしがらみの中で傷ついた心を慰めるのに格好の地だと千年前に生きた紫式部も知っていたのでしょう。
以上は謡曲史跡保存会作成の説明書きより一部引用しました。

正岡子規の歌碑。また松尾芭蕉の「見渡せばながむれば見れば須磨の秋」の碑もあります。

道路側にある鐘楼です。

境内にある須磨の関の碑です。境内の裏手から明治初年、「川東左右関所跡」という文字が刻まれている標石が掘り出された。また現光寺の山号が藩架山であること、近くに「藩架(ませがき)」とか「やぐら」とい地名が残っているが、マセ垣は、藩架のことで、「関の一画を示す垣」の意だといわれる。そのため、この寺の付近の千守(森)川の河口付近に「須磨の関」があったとする説がある。

「おはすべき所は行平中納言の藻潮(もしほ)たれつつ わびける家居近き わたりなりけり
海面(うみづら)やや入りて あわれにすごげなる 山なかなかり」 源氏物語 須磨の巻の
一説が書かれています。光源氏が京より移り住んでわび住まいしたところと 古来より
語り継がれている。

源氏物語の主人公光源氏が従者数人と京より須磨に蟄居していたところと古来より伝えられ
ています。この石碑はもともと現在の場所より北西約20mはなれた場所に建てられていま
したが平成7年(1995)1月17日阪神淡路大震災後、都市計画道路千森線の整備に
あわせて新しく平成14年(2002)再建された現光寺の門前に移されました。

下の写真は現光寺の本堂です。
謡曲「須磨源氏」は、日向国の社宮藤原興範が、伊勢参宮の途次、須磨の浦に立ち寄ると、
老樵夫(きこり)賀桜の木陰から現れ、光源氏一代の略歴を物語り、自分はその化身であることをほのめかす。その夜、旅まくらの興範の前に、菩薩となっている光源氏が、気高く優雅な姿で天下り、在りし日の須磨のくらしを回相しつつ青海波の舞を舞って夜明けと友に消えうせるという典雅な曲である。
須磨は観月の名所として名高く平安時代の王朝ロマンの主人公光源氏が、複雑なしがらみの中で傷ついた心を慰めるのに格好の地だと千年前に生きた紫式部も知っていたのでしょう。
以上は謡曲史跡保存会作成の説明書きより一部引用しました。

正岡子規の歌碑。また松尾芭蕉の「見渡せばながむれば見れば須磨の秋」の碑もあります。

道路側にある鐘楼です。

境内にある須磨の関の碑です。境内の裏手から明治初年、「川東左右関所跡」という文字が刻まれている標石が掘り出された。また現光寺の山号が藩架山であること、近くに「藩架(ませがき)」とか「やぐら」とい地名が残っているが、マセ垣は、藩架のことで、「関の一画を示す垣」の意だといわれる。そのため、この寺の付近の千守(森)川の河口付近に「須磨の関」があったとする説がある。

「おはすべき所は行平中納言の藻潮(もしほ)たれつつ わびける家居近き わたりなりけり
海面(うみづら)やや入りて あわれにすごげなる 山なかなかり」 源氏物語 須磨の巻の
一説が書かれています。光源氏が京より移り住んでわび住まいしたところと 古来より
語り継がれている。

by seiyo39
| 2008-03-26 20:45
| 神戸情報
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