勝福寺 |
本日は2008-5-19に訪問した須磨区大手町にある勝福寺(しょうふくじ)を
紹介します。
住所:神戸市須磨区大手町9-1-1 TEL:078-731-1253 代表者 高橋紹之氏
山号は桂尾山 高野派高野山如意輪寺末
勝福寺は永延2年(988)、太政大臣藤原伊尹(これただ)の3男の藤原英雄丸が
勅命(一条天皇)で証楽上人と名を改め、摂津の国神撫山(高取山麓)に草庵を設け、
附近に出没する鬼人を平定した後開基した寺といわれています。
平清盛が経ケ島築造の際、この寺の宗徒達が協力したので重要文化財になっている金銅製の
密教法具の他築島供養式の際の幡などが寄進されています。
金銅密教法具は日本最大級のもので、現在は大阪市美術館に寄託されているそうです。
また、平知章(たいらのともあきら)の甲冑も所蔵されています。
昭和13年(1938)、阪神大水害により本堂及び毘沙門堂が倒壊しました。
以来70年間、庫裏を仮本堂とし、本格的な本堂がないまま今日に至っています。
しかしこの度、本堂の再建に取り掛かる運びとなり平成18年(2006)7月吉日に着工し、
平成20年(2008)の11月に竣工の予定です。
7月には鬼瓦がのる予定だそうです。
平成21年の4月4日に落成供養式が行われる予定だそうです。
勝福寺の後ろにある飛松岡に「松岡城」があったと言われています。砦ほどの簡素なものだったとされる松岡城が歴史の舞台に出てくるのは観応の擾乱(足利尊氏と弟の直義の戦)
の時です。
足利尊氏は建武の新政に不満をもった武士の推挙され挙兵し建武3年(1336)湊川の戦に勝利し上洛し光明天皇を擁立し
自らは征夷大将軍に任命され室町幕府を開きました。
その間、後醍醐天皇は吉野に移り約60年間の南北朝時代の動乱が始ります。
観応の擾乱は、足利尊氏が弟・直義(ただよし)と敵対関係になり、3年にわたって続いた
室町幕府の権力闘争である。
この時、足利尊氏は直義の軍と御影の浜で戦って敗北。参謀の高師直(こうのもろなお)らとともに、松岡城に逃れ、たてこもった。
手兵がわずか500名になってしまった尊氏は、今はこれまでと切腹を決意する。
しかしまさにそのとき、尊氏の家臣饗庭命鶴(あえばみょうづる)が直義軍と和議が
成立したとの知らせを持ってきた。尊氏は危ないところを助かり、京都に帰ることができた。
寺門手前の路地奥にある小さな墓所には「はらきん堂」の名が残っている。
下の写真は山門。
下の写真はほぼ完成した本堂の外観である。
下の写真は鐘(裏面)。鐘の表面には無我浄心の銘が刻まれています。
下の写真は庫裏。
また桂尾山88ヶ所もあり霊場めぐりができる。霊場は大正14年(1925)に完成。
本文で誤りがありますのでコメントさせていただきます。
桂尾山勝福寺八十八ヶ所→桂尾山八十八ヶ所
大正十四年完成です。復興を計画中。写真にあるご本尊群は
山崩れ等で滑り落ち保管しており、今後戻す予定です。
鐘は無我浄心の銘が付いています。写真は裏面です。
庫裏の写真は最近のものですね。7月には鬼瓦がのり完成です。
新本堂は正面階段が出来て、竣工は今年の11月。落慶は4月4日
の予定。ハラキリ堂ははらきん堂と呼ぶのが正しいです。
金銅密教法具は日本最大級のもので、現在は大阪市美術館に寄託しています(盗難防止)。レプリカを落慶時に披露できるかも。
また寺門でなく山門です。 落慶時に記念誌を発刊予定です
価格は未決定ですが、この1冊で勝福寺のことがわかります。
是非落慶法要にお越しください。