舞子延命地蔵 改訂1 |
文政8年(1825)年おきを通る船の安全と村の平穏を願って、明石藩の許可を得て
玉垣に刻まれているように多くの方の寄進を得てお地蔵様が御影の石工により
建設されました。
延命地蔵尊を製作した石工の名前は摂州灘石屋村長谷文左衛門で
地蔵尊は文政8年(1825)4月13日に御影から舞子浜に船で運搬された。
建設は同年の10月から11月にかけて明石の石屋六兵衛が中心となり行われました。
完成は同年11月24日で餅まきが行われたそうです。
建設にあたっては山田村の庄屋中津源左衛門が摂州西成郡難波村の四国二十一
行者返礼中祖恵心と大坂堂嶋住吉屋喜助の協力を得て文政7年(1824)3月
24日に当時の郡代に設置の願書を提出したことに始ります。
昔は松ノ木の枝にできる榴のところを切ってきてそれで台座を叩きながらお経や
御真言をあげていましたが、戦後あるときからタタキ地蔵などと呼び
お地蔵様を叩いて拝みなさいと間違った説明をした為、木槌で叩かれた部分が
剥げ落ちてしまっています。台座を叩くようにしてくださいと注意書きされています。
下の写真はひがし橋より左手上が舞子延命地蔵の遠景になります。
下の写真(2枚)が舞子延命地蔵を正面から撮ったものです。
下の写真は宝篋印塔(一番左)と供養墓や地蔵群です。
真ん中の供養塔には文政10年(1827)の文字が刻まれていました。
宝篋印塔は形から江戸時代のものと推測される。
後から調査してみると慶応2年(1866)に山田村の衣笠宗兵衛(宗兵衛武常)により
櫨谷村の地蔵院にあった衣笠氏の位牌が火事で焼失した為建立されたものと
推察される。