両馬川旧跡と腕塚神社 |
寿永3年(1184)2月7日源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守平忠度は海岸沿いに西に
落ちて行った。源氏の侍岡部六弥太忠澄ははるかにこれを見て十余騎で追った。
忠度に付き添っていた源次ら4人は追ってに討たれ、明石の両馬川まできた時、忠澄に
追いつかれ2人は馬を並べての組討となった。忠度は忠澄を取り押さえ首を取ろうとした時
忠澄の郎党によって、右手を切り落とされた。忠度は最早これまでと念仏を唱え始める。
箙(えびら)に結び付けられた文を広げると「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の
主(あるじ)ならまし 忠度」とあり初めて忠度であることが判った。
平忠度は平清盛の末弟で歌の分野では藤原俊成に師事した風流人であった。
年齢は41歳で忠度が馬を並べて戦った川をその後両馬川と呼ぶようになった。
つい最近まで山陽電車人丸駅の北側に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠と
なってしまっている。
下の写真は両馬川旧跡の石碑(左下の写真)と説明書き(右下の写真)
下の写真は両馬川旧跡附近の源平合戦ゆかりの地の案内図。
下の写真は腕塚神社。腕の病気に対してご利益があるといわれる。
下の写真は裏手より見た腕塚神社。
写真はすべて2008年7月20日(日)に撮影。
万延元年(1860)の銘が残る人丸山の案内の石碑。国道2号線の歩道にあります。
上の写真は平忠度(たいらのただのり)の兄平経盛(たいらのつねもり)の子の
平経正(たいらのつねまさ)の馬を埋めたとされる馬塚の跡であります。