海泉寺 |
住所:神戸市長田区駒ケ林町3丁目10-1 TEL:078-611-1241
臨済宗の禅寺であり 山号は龍雲山 写真はすべて2008-8-11撮影
正和2年(1313)、弘法大師により創建された宝満寺(神戸市長田区東尻池町2丁目)
の子坊として海泉寺は創建されたらしい。


上の写真は寺に隣接して設置された鎮守社(稲荷神社)。


下の写真は湯川秀樹博士命名の鐘「全人類の幸せを祈る鐘」であるが、震災で
倒壊し、まだ復旧されていない状態であった。




下の写真は湯川秀樹博士の位牌を祀る小さな観音堂がありました。

瓦に海泉寺の銘が入っているのと立派なものであったのでつい写真を撮ってしまいました。


宝満寺は格式の有るお寺で、幕府の官寺だったようです。
いわば国立寺院のようなものですね。
新義真言宗様式の仏像もすばらしいですよ。
摂津国の五山十刹制度の諸山(五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院)
宝満寺(開基法燈国師) 南禅寺派 (法燈派) 神戸市長田区
福海寺(開山在庵禅師) 南禅寺派 (宗覚派) 神戸市兵庫区
廣厳寺(開山明極禅師) 南禅寺派 (明極派) 神戸市中央区
福厳寺(開山佛燈国師) 南禅寺派 (大覚派) 神戸市兵庫区
禅昌寺(開山月庵禅師) 南禅寺派 (大応派) 神戸市須磨区

知りませんでした。
臨済宗 宝満寺派ともいえる教団が神戸にあったんですね。調べてみると現在は神戸には須磨寺しか大本山はありませんでした。
長田区には本当に由緒のあるお寺がおおいですね。


震災の爪あとも残っていましたが、本当に立派なお寺でした。図書館で調べてみると、
近隣の五ヶ寺が合併し、現在の様な海泉寺になったようです。長田区もまだまだ調べてみる価値がありますよ。

ネットのブログに宝満寺の末寺についての記載がありました。
宝満寺観音堂
本尊は観世音菩薩。
この観音堂は、昭和20年の戦災で半焼した鐘楼を改造して、
昭和43年に建立されました。
遠い昔・・・、宝満寺と共に栄えていた塔頭や末寺の各寺院は戦国時代の乱世と
明治維新の廃佛棄釈の世に、次々と廃寺の運命を辿った。
それらの寺院をこの観音堂に合祭し、有縁無縁三界萬霊の供養をするものでありますとありました。


雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。〔その後移転〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
筆者も明治四十三年頃に駒ヶ林のこの堂を訪ねたが、その頃
は土地の者は「枕寺」と呼んでいた。堂には雑魚寝に用いた枕と
いうのが七八十も積んであったので、枕寺の由縁も、在りし昔の
雑魚寝の盛んであったことも偲ばれた。


臨済宗 南禅寺派。
文永三年(1266)この村の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、慈眼庵、松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。のちに宝満寺は禅昌寺の末寺となり、更に本山直寺となつた。 慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた。のこつた宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株のサツキが庭一面に枝をはり、花時には賑わう名所となつていた。が先の阪神大震災で壊れ、現在建築工事準備中。
宝珠寺は長田北交差点のひがしきたがわにある。
海泉寺は寺伝では、正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方にあったが、明治七年火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。大正十二年に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の木材を本堂に利用した。このとき発見した阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
此の堂にまつられていた阿弥陀三尊仏がいまの海泉寺の本尊である。この阿弥陀堂が往古駒ヶ林でざこね堂〔雑魚寝堂〕としたしまれたお堂と言われる。

海泉寺
駒林神社の北に海泉寺がある、本寺は近年公会堂の所から現位置に移転され本堂は昔駒林大御堂と呼ばれ昔駒林の雑魚寝堂(ざこね堂)を移転したものであってほぼ旧形を存するらしい、昔昔一村男女がざこねした堂であるというのは誤りで仏恩報謝の勤行のため参篭したのを誤り伝えとのことであるとも語られている

もの。 今回手元にあるのは昭和31年に再版されたもので、旧仮名遣い
(挿絵の説明は右から左への横書き!)と972頁という分量から、
かなり読み応えがありそうです。
著者の中山氏は、岡野知十、柳田國男に師事したとのこと。ネットや
パソコンのない時代に、記者をしながら、膨大な量の本を読み、話を
聞きに方々に旅し、〔神戸市長田区駒ヶ林も調査しています。〕10年
間で2万枚のカードにまとめたという著者の 努力には、ほんとに頭
が下がります。 婚姻だけでなく、各時代の離婚にも触れるなど、細
かいことまで調べられていること、戦後の価値観が入ってくる前に
書かれていることなど、かなり価値があると思われます。

神戸市長田区の駒ヶ林のざこねの風習も、
土地の「子安観音」信仰や「乳母が石」信仰から見ても察せられる様に、
快楽を求めるだけの祭りではなく、妊娠を目的としたる雑魚寝が本来の目的かもしれない。
子供は本当の父が分からなくとも、村の子供として神仏から授かったとして育てる、そして
共同体としての村の結束力を高める意義があったとおもわれる。

民俗学の大家、中山太郎先生が駒ヶ林に調査に行かれているときは、
まだ海泉寺とざこね堂が合併されるまえであったと思われます。
長田区の歴史をまとめた「西摂大観の下」には、海泉寺とざこね堂が別欄に、
記載されています。ざこね堂の欄には、
ざこね堂、駒ヶ林字堂の町にあり、寛政年間創建せしものにて、阿弥陀堂なりしとぞ、
或いはいふ初め堂の成就するに當り村中の男女七日七夜の間、参篭せしより此名ありといふ
由来不詳。
とある。庶民の裏の歴史ゆえに文書にざこねの風習の子細が書かれていることはありえない。
それを詳細にしらべられ、後世に駒ヶ林のざこねの風習をつたえられたのは、
民俗学者の中山太郎先生等の業績である。

駒ヶ林の大御堂=ざこね堂 駒ヶ林の大御堂=阿弥陀堂
ざこね堂=阿弥陀堂 ざこね堂=観音堂とされている。駒ヶ林には寺院では無いお堂、観音堂、阿弥陀堂、薬師堂がありいずれでも雑魚寝が行われていた可能性がある。 全国的に見るとざこねに使われたお堂は、阿弥陀堂であることが多い。
明治初年には、海泉寺、宝珠寺を残し、慈眼庵、松源庵、松月庵は廃寺され、 海泉寺に合併されている。 宝珠寺は現在海泉寺の管理下にあり兼務されている。現在ざこねについては長田区の公式ホームページで阿弥陀堂の行事として記されているが、阿弥陀堂と合併した海泉寺では知ることができない。しかしざこね本来の目的の一つである、種貰いにゆらいする、子安観音や乳母が石などのざこねに由来するものは残っているという。

震災で本堂や鐘楼が全壊し、再建のめどは立っていない。市の指定文化財にもなった阿弥陀如来像は指などが折れ、京都で修繕を受けていたが、 二年前に帰ってきた。 同像を一般公開するのは今回が初めて。仮本堂に安置され、檀家(だんか)
らが手を合わせた。同区で被災し、京都府や奈良県などに移り住んだ元住民らも訪れ、 懐かしい話に花を咲かせた。檀家の一人、東田千恵子さん(55)は「鐘楼がないから、
大みそかに鐘の音が聴けなくて寂しい。でも、懐かしい人たちに会えたし、ようやく本尊が見れてうれしい」住職は「お年寄りたちが顔を合わせ、 話ができる場になりつつある。地元に愛着を持ってもらう機会になれば」と話している。公開は二十日午後八時まで。

その昔、駒ヶ林の人々はこの阿弥陀様の前でざこね・雑魚寝していたんですね。
木造阿弥陀三尊立像
鎌倉時代
宗教法人海泉寺 兵庫県神戸市
阿弥陀如来立像(像高78cm)
勢至菩薩立像(像高50.5cm) 観音菩薩立像(像高50.5cm)
木造阿弥陀三尊立像
本三尊像は、鎌倉時代初期に活躍した仏師快慶が創作したスタイルである 「安阿弥様(あんあみよう)」来迎三尊の佳作として注目すべきもので、 13世紀の作と考えられる。中尊は快慶の作風と比べると、表情・肉身・ 衣紋などすべて穏やかにまとめられ、目が小さく、目鼻立ちが顔の中 心部に寄り気味なのも特徴的である。脇侍像は、ポーズや衣紋表現な どに動きがみられ、中尊とは作風を幾分か異にする。 阪神・淡路大震災により本堂が倒壊し、本三尊像も被災したため、 各矧ぎ目に離れと緩みがみられ、欠失や欠損部もあるため、解体修理を行う。