瀧善三郎正信の顕彰碑 |
下の写真の説明書きのように、元は能福寺の東100mのところにあった永福寺に
建立されたものである。
瀧善三郎正信は備前藩士で500名の備前の警備隊の第三砲隊長であった。
神戸事件の概要(三宮神社前の説明文より引用)は以下のとおりです。
神戸開港早々の明治元年(1868)正月11日、尼崎へ出向を命じられた岡山備前藩の隊士の行列が三宮神社前を通過するとき、神戸沖に停泊中の外国軍艦の乗組員数名が行列を横切った。隊士の瀧善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って相手を傷つけた。それがもとで外国兵と備前藩士の一行との間に砲火を交える騒ぎとなった。その結果、神戸の街は外国兵によって一時占拠されてしまった。
同月15日、東久世通禧は勅命で神戸へ来て明治維新で天皇新政となったことを初めて外国側に知らせ同時にこの事件について交渉をした。結局、瀧善三郎は責任を一身に負い外国人代表ら立会いの面前で切腹して問題は解決した。
フランス兵2名が隊列を横切りにたいして槍でその兵に軽傷を負わせた。
死者が出ていない事件に対して1人の切腹は刑が重過ぎるという考えもあったが、
備前藩士瀧善三郎正信の切腹で問題は解決した。
神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。
1月16日に外国公使の示した条件は厳しいもので岡山藩側の発砲を命じた士官は死罪
であった。こうして瀧善三郎正信の切腹は2月9日午後11時30分兵庫の永福寺において
各国代表者の立会いのもと行われた。
この切腹により日本の危機は脱せられた。
下の写真は昭和8年(1933)有志により永福寺に建てられた顕彰碑である。
永福寺が戦火で消失したため能福寺に移転されたものである。

下の写真は昭和44年5月に書かれた説明書き。

下の写真は明治元年(1868)2月9日午後11時30分兵庫の永福寺において
各国代表者の立会いのもと行われた瀧善三郎正信の切腹の様子が描かれた画と
背景などが書かれた説明書きの写真です。2008-8-8撮影
