2008年 10月 11日
堺散策 その17 覚応寺 |
覚応寺について紹介します。以下堺市作成の説明文より引用
「伊予(愛媛県)の豪族河野通有の子であった通元は、 本願寺覚如上人に帰依して、
覚応と名乗りました。
正中2年(1325)、日向(宮崎県)の霧島山のふもとに 一宇を建て、覚応坊と名づけました。
その後、数代を経て堺に移り、北鏡屋町(錦之町東 1丁)に寺地をもちました。第5世覚貞は、蓮如上人に 師事して、坊を改めて覚応寺としました。その後、現 在地に移りました。
当寺の住職であった河野鉄南は、与謝野晶子と浪華 青年文学会の機関誌「よしあし草」によって歌を通じ て親しく交わりをかわしていました。
また、与謝野鉄 幹とは少年時代から親しく、晶子を鉄幹に紹介いたし ました。これらのことに因んで、当寺の境内に、「その 子はたち くしにながるる くろかみのおごりの春の うつしきかな」という晶子の歌碑が建てられていま す。
毎年5月29日晶子命日に晶子を偲ぶ白桜忌が催さ れます。」
本願寺堺別院のすぐそばにあります。


「伊予(愛媛県)の豪族河野通有の子であった通元は、 本願寺覚如上人に帰依して、
覚応と名乗りました。
正中2年(1325)、日向(宮崎県)の霧島山のふもとに 一宇を建て、覚応坊と名づけました。
その後、数代を経て堺に移り、北鏡屋町(錦之町東 1丁)に寺地をもちました。第5世覚貞は、蓮如上人に 師事して、坊を改めて覚応寺としました。その後、現 在地に移りました。
当寺の住職であった河野鉄南は、与謝野晶子と浪華 青年文学会の機関誌「よしあし草」によって歌を通じ て親しく交わりをかわしていました。
また、与謝野鉄 幹とは少年時代から親しく、晶子を鉄幹に紹介いたし ました。これらのことに因んで、当寺の境内に、「その 子はたち くしにながるる くろかみのおごりの春の うつしきかな」という晶子の歌碑が建てられていま す。
毎年5月29日晶子命日に晶子を偲ぶ白桜忌が催さ れます。」
本願寺堺別院のすぐそばにあります。


by seiyo39
| 2008-10-11 05:57
| 大阪情報
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