加東市 秋津住吉神社の湯立神事 on 2015-4-29 |
湯立神事の動画を紹介します。
湯立神事は湯立神楽とも呼ばれ日本の伝統的な神事の形式のひとつです。
釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣
などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。
上の動画が秋津住吉神社の湯立神事です。
天災災難除け、五穀豊穣、恵みの天水を祈願しました。
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2015年 05月 03日
2015年4月29日に秋津百石踊に先立って行われた加東市 秋津住吉神社の
湯立神事の動画を紹介します。 湯立神事は湯立神楽とも呼ばれ日本の伝統的な神事の形式のひとつです。 釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣 などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。 上の動画が秋津住吉神社の湯立神事です。 天災災難除け、五穀豊穣、恵みの天水を祈願しました。 関連ブログ 神戸市北区淡河町 歳田神社の御田祭 on 2013-5-3 湯立神事の写真を観れます ■
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by seiyo39
| 2015-05-03 06:56
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2014年 05月 17日
2014年4月17日、恒例の三木合戦 絵解きが三木市別所町東這田の法界寺でありました。初めて参加させていただきました。「三木合戦絵図」は三幅で構成された絵図で、天保12年(1841)に讃岐在住の別所氏末裔・別所九兵衛長善が画師・中条竹趣に模写させ、三木合戦時の城主・別所長治の菩提寺である法界寺に奉納されたものです。原図となった三木合戦絵図はは別所方として三木城に籠城した別所氏の家臣の来住安芸守(きしあきのかみ)の子孫によって寄進され、寛永年間(1624~1644)頃に制作されたものと伝えられており、金箔が貼られた豪華なものとのこと。語り手は生田淳仁氏で代々語り手を務められているそうです。少なくとも200年以上続いている三木市の伝統行事です。
尚、13:30からスタートの午後の部では三木市立自由が丘中学校教諭の西森良企氏が語り部を務められました。 来住(きし)氏の由緒は「播州古城軍記」等によると城主は清和源氏多田満仲の後裔が下向し、代々来住姓を名乗ったとあるが、「赤松家播備作城記」では正和二年(1313)、来住安芸守惟友が築城したとあり、実際のところ不明である。 来住(きし)城跡は小野市に残っているようです。 来住(きし)氏に関するサイト http://www.siromegu.com/castle/hyogo/kisi/kisi.htm
http://kirinosato.fc2web.com/HARIMA-onosikishi-siro.htm ■
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by seiyo39
| 2014-05-17 18:19
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2014年 03月 04日
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の第9回の放送が3月2日にあり黒田官兵衛が主君の御着城主小寺政職(まさもと)の織田信長方につくことを進言、天正3年(1575)7月、小寺政職の使者として黒田官兵衛は岐阜城に行き織田信長と謁見した。播磨は毛利の領国との国境にあり播磨を手に入れれば中国毛利攻めが有利になるので、まず播磨に進攻するように進言した。信長は「官兵衛の作戦は理にかなっており、自分の考えと同じである」と褒め名刀の圧切り長谷部を拝領した。上記のように信長方への参画がメインの内容であった。第10回(3月9日放送予定)は小寺政職が織田方に味方するとの情報を知った毛利輝元は天正4年(1576)5月、毛利軍の浦宗勝(うらむねかつ)が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸する。所謂、英賀合戦の場面となります。このことから本日は表題のように英賀城跡と英賀合戦というテーマでブログ記事を書いていきます。
写真は2013年12月14日に山陽電鉄の西飾磨(にししかま)からJR西日本の英賀保(あがほ)まで散策した時のものを使用しています。 ![]() 念のため英賀城本丸跡の碑がある場所の地図も添付しておきます。 2013-12-14に散策した場所を順に記載していきます。 1.英賀城本丸跡碑 地図の17の位置です。 ![]() ![]() 上の写真は英賀城本丸之跡と書かれた石碑です。昭和35年(1960)1月英賀自治振興会により建立されました。当時の英賀城址保存顕彰会のメンバーが書かれた石碑もありました。(下の写真) ![]() ![]() 英賀城(あがじょう) 岩繋城(いわつぎじょう)ともいう。 南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。 鎌倉時代には、とりでが、造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。 しかし嘉吉の乱(1441年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。 天正8年(1580年)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し、一大勢力を誇っていた。 城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。 また英賀五坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町、約九百軒)として大いににぎわった。 昭和13年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・宝寿寺跡)の北側だけに残っている。 また英賀御坊跡は昭和13年ごろ夢前川の付替工事により消滅した。 その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。 平成6年12月 姫路市教育委員会 ![]() ![]() 地図は下側が北となっていますので注意が必要 天正5年(1577年)現在の英賀城郭概要 1)城郭面積 56ヘクタール 約17万坪 2)土塁堤防延長 3,700メートル 3)城内区域延長 東西900メートル・南北800メートル 4)城門 10門 5)城郭建物 本丸・二ノ丸ほか7館 6)英賀御坊ほか35ヶ寺 7)城内町衆の数 49町 860軒 英賀合戦について簡単に記述しておきます。 小寺政職が織田方に味方するとの情報を知った毛利輝元は天正4年(1576)5月、毛利軍の浦宗勝が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸する。浦宗勝は、小早川隆景の水軍を代表する名将で、毛利水軍を支えた人物である。このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は32歳であった。黒田官兵衛は小寺政職に対して小勢(500人~1,000人程度)で毛利の大軍に立ち向かうためには敵の不意を襲うほかないと進言し、小寺政職が出陣を許可すると、小寺官兵衛は、農民を集めて幟・旗・鐘・太鼓を持たせて後方の茂みに伏せ、手勢500人を率いて英賀村に到着した浦宗勝の軍に奇襲攻撃をかけ(英賀合戦)戦いに勝利した。 このとき黒田官兵衛は次のような文章を残しています。 「身を捨てて運のほどを一戦の勝負に試み給へかし」 英賀薬師周辺と英賀神社の記事に続く さらに見る場合はMoreへ More ■
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by seiyo39
| 2014-03-04 07:54
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2014年 03月 03日
2014年3月2日(日)に浦正で浦正弁当をいただきましたので写真紹介します。
浦正は昔、浦鮨と呼ばれていましたが2011年?から現在の名前になっています。 明石で私のお気に入りのお寿司屋さんです。 浦正 本店(旧 浦鮨)の基本情報 住所:住所:明石市日富美町14-23メルゼス明石1F TEL:078-917-9955 公式HP:明石の寿司 浦正 公式FB:https://www.facebook.com/urazushi 定休日:火曜日 料理ジャンル:寿司、鮨 ![]() 最初に下の写真のサラダが出てきます。 ![]() 上記弁当のアップ写真(4枚)を添付しておきます。 ![]() ![]() ![]() 過去の訪問記 明石の寿司 浦正明石本店の浦正弁当 on 2013-5-11 明石の寿司 浦正明石本店の浦正弁当 on 2013-2-14 明石の寿司 浦正明石本店の浦正弁当 on 2012-5-10 明石の寿司 浦正明石本店の浦正弁当 on 2012-3-7 明石の寿司 浦正明石本店の浦正弁当 on 2011-4-28 明石の寿司 浦正明石本店の浦正弁当 on 2010-12-1 浦鮨明石本店 on 2008-5-9 ■
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by seiyo39
| 2014-03-03 05:39
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2014年 02月 28日
「新聞の父」として知られる兵庫県播磨町出身のジョセフ・ヒコ(1837~1897年)が日本初の民間邦字新聞「海外新聞」を発行してから今年(2014年)で150年になるのを記念して表題のヒコの似顔絵イラスト展が播磨町郷土資料館で行われています。開催期間は2月2日から3月2日までです。あと3日しかありませんがまだ観ておられない方は是非播磨町郷土資料館まで足をお運びください。
![]() ![]() 播磨町及び町外から98点の作品が寄せられ厳正な審査で各賞が決定されたそうです。詳細な結果下に添付のとおり。 ![]() http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/2014/02/post-441a.html ![]() 播磨町郷土資料館を紹介した小生のブログ ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その5 播磨町郷土資料館 ■
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by seiyo39
| 2014-02-28 05:57
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2014年 02月 23日
2014年2月22日、播磨町古田の正願寺にある表記「怒涛を越えた男たち」の石碑の写真を撮ってきましたので紹介します。
![]() ![]() ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は日本で最初に民間新聞を発刊したことで知られています。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)でここではメインとしてこの名前を踏襲するが、アメリカ彦蔵(アメ彦)、浜田彦蔵、ジョセフ彦、浜田彦太郎、墓碑に彫られた浄世夫彦などの別名もある。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航(2度目)しそして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。当時は尊皇攘夷思想が支配しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、ジョセフ・ヒコは身の危険を感じて文久元年(1861)9月17日に3度目のアメリカに戻った。文久2年 (1862)10月13日、横浜に帰り再び米国領事館通訳の仕事を始めるが、文久3年( 1863) 9月30日、領事館を辞任し商売を始める。この年の秋には漂流記を上梓。さらに元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応2年( 1866) 12月25日(新暦換算)、横浜を去り長崎に向うここで伊藤博文や木戸孝充と知り合いとなる。慶応4年(1868)9月22日生まれ故郷の古宮に帰郷した。東京を中心に活動した。以下の略歴を略す。明治30年( 1897) 12月12日、心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる。 ![]() 嘉永三(1850)年十月 千六百石積廻船永力丸 遠州灘沖にて破船 太平洋上を漂流すること五十余日 船頭万蔵ら十七名 米船オークランド号に救助され サンフランシスコに上陸 異文化に触れ とまどい おののき 憧れつつも 遠き故郷の山河を思う 鎖国から開国 動乱と混迷の時代 怒涛の果てを見た男たちがたどる 希望と失意 栄光と挫折の生涯 歳月過ぎて 漂流より百五十年 その面影を(イラストレイテッド・ニュース1853年1月22日刊)より写し 記念の碑とす 2000(平成12)年12月 ![]() ![]() 銘 1980年以来 漂流史料の調査にあたっ てきた小職は 海の男たちを紹介・顕彰する 記念スポットが本町内に設置されることを願 っていたが その機運に恵まれなかった 表記の永力丸漂流人と当寺には特別な関係 は無いが このたび門徒総代等の協賛を得て 当山境内に記念碑建立のご縁が結ばれた 建立・碑文 井上朋義 協賛 正願寺住職・門徒総代・他 藤本健八氏所有「ニューズ」より複写(1.37倍) ここで話題を変え正願寺(しょうがんじ)について若干触れておきます。 正願寺(しょうがんじ)の基本情報 住所:兵庫県加古郡播磨町古田3丁目18番10号 問い合わせ先:0794-37-8455 宗派:浄土真宗本派 山号:能念山 御本尊:阿弥陀如来 創建:寛永7年(1630) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 正願寺の前住職で4年前に亡くられて井上朋義氏(1931-2010)は播磨町の教育長や播磨中央公民館の館長なども歴任されジョセフ・ヒコの顕彰と調査研究をされており多くの著作を残されました。その一端を紹介します。 ![]() 怒涛を越えた男たち(漂流史料研究集) 編集:「怒涛を超えた男たち」編集委員会 発行:播磨町・播磨町教育委員会 筆者:東根武一、中嶋仁道、井上朋義 A5判389ページ ![]() 絵ものがたり ジョセフ・ヒコと洋式帆船の男たち 句・絵 井上 朋義 句補作 村津 雅夫 文字 籠谷 久 ![]() ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)を紹介した小生のブログのリストアップしておきます。(播磨町関連のみとした) ジョセフ・ヒコの生家跡 in 兵庫県播磨町 on 2012-6-9 ![]() What he has seen and the people he has met in the course of the last forty years By JOSEPH HECO Edited by James Murdoch,M.A (FROM THE TIME OF HIS BEING CASTWAY IN 1850 DOWN TO THE FIGHT OF SHIMONOSEKI ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町 散策記 その1 ジョセフ・ヒコの銅像 ![]() ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その2 新聞の父ジョセフ・ヒコの記念碑 ![]() ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その3 新聞の父濱田彦蔵の碑 ![]() ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その4 蓮花寺の横文字の墓 ![]() to the Memory of his Parents & Family by Joseph Heco December 1870 と書かれています。 ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その5 播磨町郷土資料館 ■
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by seiyo39
| 2014-02-23 17:23
| 神戸以外の兵庫県
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2014年 02月 13日
橋本海関先生について過去に小生のブログで紹介しました。サイトアドレス:http://seiyo39.exblog.jp/19958050/
上記のサイトで紹介した内容を再掲します。(下記) 橋本海関は嘉永5年(1852)明石藩の家臣橋本文水・マサ夫妻の子として生まれた。 本名は橋本子六。橋本徳有則という号も使用しています。 生家は明石市天文町の平忠度(ただのり)の塚のある場所の北側(明石村158番地)である。 橋本海関の父親の橋本文水は学問方の先生を勤め博学で山水画が上手かった。 橋本海関の祖父は剣術、柔術の武芸の指南役をつとめていました。 橋本海関先生の足跡を年代順に辿ってみたいと思います。 文久9年(1861)橋本海関9歳 母マサに実家山内家の明石藩士真陽に孟子を勉学 真陽が亡くなった後は梁田蛻巌 (やなだぜいがん)の景徳館に入り 梁田葦洲(やなだいしゅう)に師事しました。 慶応2年(1866)橋本海関14歳 明石藩講武所詰となり武士道を学ぶ 慶応4年/明治元年(1868)橋本海関16歳 父橋本文水より詩を学ぶ 明治5年(1872)橋本海関20歳 敬義館の国語教師に就任 明治10年(1877)橋本海関26歳 兵庫県師範学校の教師となる 明治11年(1878)橋本海関27歳 神戸中学校の教師(併任) 明治xx年 橋本海関が池田フジ(不二子)と結婚 神戸市中央区楠町に居 フジは武家の娘であり書、絵、歌、琴等に秀でた才媛で美人であった 明治16年(1883)橋本海関32歳 長男の橋本関雪が生まれる 明治21年(1888)橋本海関37歳 妻フジが5歳の関雪と妹チエを残し家出 家出の理由は奇行の多い海関に愛想をつかしたという説と フジに愛人ができたという説がある。 5歳の関雪を育てたのは祖母のマサになります。マサの実家の山内家も 儒家で漢文や絵を描くことに優れていた。子守唄の代わりに孔子の教え の論語を聞きながら海関、関雪が育てられたとのこと。 明治xx年 清国大使館書記官の鄭孝胥(ていこうしょ)との出逢い 横浜で清国の政治家康有為(こうゆうい)の支援(翻訳など) 明治32年(1899)橋本海関48歳 加古川市尾上町の尼寺に寄寓 明治39年までの7年間 明治40年(1907)橋本海関56歳 明石の天文町に居を移す「赤石三勝」を著作 大正2年(1913) 橋本海関62歳 長男の橋本関雪と孫の節哉を同行して中国旅行 帰国後「一葦航吟」を著作 大正9年(1920) 橋本海関69歳 郷土の名勝を散策、昭和8年まで15年かけて 「明石名勝古事談」を著作 全11巻ある著作で明石の郷土史の基礎となっている 昭和10年(1935)橋本海関84歳 明石の地で没 2014年2月11日に明石市立図書館で橋本海関先生(1852-1935)に関する資料を若干収集しましたのでその内容を付け加えて再度、橋本海関先生の足跡を辿ってみたいと思います。 参照した資料は下記のとおりです。 1) 明石ゆかりのひとびと (財)兵庫県学校厚生会編 神戸新聞総合出版センター (1999) Page183-188 2) 明石市史 Page78-79 3) 明石名勝古事談 復刻版 橋本海関著 昭和49年(1974) 4) 播磨学紀要 播磨学研究所 第10号 (2004.10) Page12-22 まず、橋本海関著の明石名勝古事談 復刻版の表紙に橋本海関の写真がありましたので添付させていただきます。 ![]() 1.儒家(学者)としての橋本海関 橋本家は明石藩の剣術・柔術の武芸の指南役を務めていましたが橋本海関の父、橋本文水の代からは学問方の先生となり「文人」の家系となった。橋本文水は南画が好きで山水画をよく描いており、寺子屋などをしていた。橋本文水の兄弟には昆虫学者で有名な松村松年の父や松村如屏(写生画)や浦井香園(花鳥画)がおり芸術家の血が橋本海関には流れていると言える。橋本海関は文久元年(1861)の頃、母マサの実家山内家の儒者、山内真陽や梁田蛻巌(やなだぜいがん)のつくった景徳館で梁田葦洲(やなだいしゅう)に師事して儒学を学んでいます。それより前の海関の幼い頃、母のふところで論語を子守唄のように聞かされて育った。漢学者としての素養はこの頃から育まれていった。上記の山内真陽は幕末の日本の国情をよく理解し、幕末の勤皇の志士の佐賀藩西村周平、周防の志士江村彦之進・小川轍之、播磨網干の漢学者河野鉄兜らとも親交があった。 2.教育者としての橋本海関 橋本海関17歳の慶応3年(1867)には明石藩校「敬義館」、江井ヶ島の郷校の句読方として教鞭をとっています。のちには兵庫県師範学校や神戸中学校で教諭を務めています。 3.詩人としての橋本海関 橋本海関の詩集には海関詠物詩集、赤石三勝詩、馬牛裾集、一葦航吟、馬牛裾余輯などがあります。 海関詠物詩集は国会図書館のデジタル資料で確認できます(下記サイト) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/893432 4.書家としての橋本海関 橋本海関は知り合いから頼まれると気軽に墨書を書いた。明石市内には橋本海関揮毫の石碑が残っています。 1)月照寺の「八房世姿の梅」と書かれた石碑 2)月照寺の「八房梅霊樹」の石碑 3)月照寺境内の石碑「海上安全船乗十一面観世音菩薩」 4)中崎にある「中崎遊園」と書かれた石碑 5)「菅公旅次遺跡」の石碑 写真などは下記アドレスのサイトに掲載しています。 http://seiyo39.exblog.jp/19958050/ 5.日中文化交流に貢献した橋本海関 明治24年(1891)駐日大使館領事館として来日し、のちに明治27年(1894)日清戦争の直前に神戸総領事となった鄭孝胥(ていこうしょ)との出会いをきっかけに清国の学者で政治家の康有為(こうゆうい)とも交友。 日本語から中国語に翻訳された「東亜報」の出版に協力している。 康有為(こうゆうい)を支援し東亜同文会も結成され横浜での活動にかかわるが横浜での借金がかさみ貧しい生活となり明治32年より7年間加古川の尼寺に寄寓する ことになります。 6.郷土史の著作 晩年、明石名勝古事談を著作しています。 ■
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by seiyo39
| 2014-02-13 12:18
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2014年 01月 27日
2014年1月26日(日)、光姫フェスティバル~輿入れの儀の行列~が光姫の実家があった志方城跡(観音寺)であったので出かけて写真とビデオを撮ってきましたので紹介します。観音寺はおろかJRの宝殿駅に降りたのも初めてで土地勘もなく紹介記事の内容む誤った事項を書くこともあるかも知れませんがご容赦ください。
まず、観音寺の紹介からします。 観音寺の基本情報 住所:加古川市志方町志方町720 TEL:079-452-2370 宗派:曹洞宗 御本尊:観世音菩薩 現在の観音寺は、志方城落城の後、天正15年(1587)、宝岩宗珍和尚が 城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。 ![]() 志方城は市易城とも呼ばれ、城の規模は現在の当観音寺の境内を本丸とし、 本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり) 西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であった。 この城の城主、櫛橋家は藤原氏の末裔で伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣であった。 伊朝より5代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ 祖父の例にならって播備作3国の財産出納の役をつとめ 文明13年(1481)志方・天神山に城を築き、 明応元年(1492)この地に志方城を築いた。 以来伊家、伊定と父子3代80年間続いたが、天正7年8月10日羽柴秀吉の 攻略にあって落城した。 昭和56年2月 加古川市文化財保護協会 ![]() 市は新しい説明書き(上の写真)を作成されていました。上記の説明に加えて次の記述が書かれています。「伊定の娘の光/てる(幸圓・こうえん)は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の妻となり、結婚した翌年に嫡男が生まれました。後の福岡藩主・黒田長政です。現在の観音寺は、志方城落城の後、天正十五年(1587)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() いよいよ本番です。9時45分くらいから前観音寺住職ので「志方光姫の会」会長の村上博生(はくしょう)さんの挨拶 加古川市副市長の挨拶。 黒田官兵衛の名代として黒田官兵衛の叔父の黒田休夢(きゅうむ)この役は講談師の旭堂南海さんが櫛橋家の居城である志方城に到着するところから始まります。 黒田官兵衛の叔父の黒田休夢の言上とそれを迎えた黒田官兵衛の妻となった光姫と父親役櫛橋左京亮伊定(さきょうのすけこれさだ) いよい輿入れの儀と行列が始まりました。 ■
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by seiyo39
| 2014-01-27 18:44
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2014年 01月 25日
2014年1月21日(火)に明石の釜めし みや古でランチをいただきました。
写真紹介します。 みや古(みやこ)の基本情報 住所:兵庫県明石市桜町13-13 TEL:078-917-5988 営業時間:昼は 11:30-14:00 (LO 13:00) 夜は 17:30~22:00 (LO 21:00) 定休日: 昼は土曜、日曜日、祝日 夜は日曜日、祝日 料理ジャンル:釜めし、串かつ 公式HP:http://www.k3.dion.ne.jp/~miyako/index2.html 久しく釜飯(釜めし)を食べていないので明石の釜めし みやこまで行ってきました。 当日、注文したのは三串釜御膳 1,250円です。 ![]() ![]() ![]() 今回も美味しくいただきました。 ![]() ![]() 前の訪問記 明石の釜めし みや古でのランチ on 2013-5-1 ■
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by seiyo39
| 2014-01-25 08:21
| 神戸以外の兵庫県
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2014年 01月 24日
2013年11月6日に西国三十三所巡り 26番霊場 法華山 一乗寺に参拝してきました。
写真紹介していきます。 法華山 一乗寺の基本情報 住所:兵庫県加西市坂本町821-17 TEL:0790-48-2006(地蔵院・本坊) 0790-48-4000(納経所) 宗派:天台宗 山号:法華山 御本尊:聖観音菩薩 開基:法道仙人 創建:孝徳天皇の勅願で白雉元年(650) 御詠歌:春は花夏は橘秋は菊 いつも妙なる法の華山 ![]() 正面に正和5年(1316)の刻銘があります。 ![]() ![]() ![]() ![]() 三重塔は承安元年(1171)の建立。 Wikipediani一乗寺の創建当初に関する記述がありそれを引用紹介します。 創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。 ![]() ![]() ![]() ![]() 上の2枚の写真は本堂に続き寛永6年(1629)に再建建立された鐘楼です。県の指定文化財になっています。 ![]() ![]() ![]() ![]() 奥の院への道はがけ崩れで通行禁止となっていました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 詳細な解説をされているサイトへリンクさせていただきます。 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7460/hyougo-itijyouji.htm 下記は播磨西国三十三カ寺のリストです。 訪問した法華山 一乗寺は播磨西国三十三ケ寺の33番霊場でもあります。 札番 山号/寺院名 所在地 第1番 書写山 圓教寺 兵庫県姫路市書写2968 第2番 富田山 性海寺 兵庫県飾磨郡夢前町宮置812 第3番 八徳山 八葉寺 兵庫県神崎郡香寺町相坂字八徳山 第4番 増位山 随願寺 兵庫県姫路市白国3丁目25-5 第5番 巨福山 光正寺 兵庫県姫路市野里慶雲寺前町10-1 第6番 松原山 八正寺 兵庫県姫路市白浜町松原389 第7番 朝日山 大日寺 兵庫県姫路市勝原町朝日谷19 第8番 稲富山 圓融寺 兵庫県揖保郡御津町岩見807 第9番 寶生山 長楽寺 兵庫県赤穂市砂子398 第10番 済露山 高蔵寺 兵庫県佐用郡三日月町下本郷十七 第11番 船越山 瑠璃寺 兵庫県佐用郡南光町船越877 第12番 七種山 金剛城寺 兵庫県神崎郡福崎町田口236 第13番 雪彦山 満願寺 兵庫県飾磨郡夢前町新庄938 第14番 龍上山 延応寺 兵庫県朝来郡生野町口銀谷81-1 第15番 金楽山 法楽寺 兵庫県神崎郡神崎町中村1048 第16番 泉生山 酒見寺 兵庫県加西市北条町北条1319 第17番 蓬莱山 普光寺 兵庫県加西市河内町1449 第18番 五峰山 光明寺 兵庫県加東郡滝野町光明寺433 第19番 和多山 西仙寺 兵庫県西脇市西田町88 第20番 柏谷山 西林寺 兵庫県西脇市坂本454-123 第21番 御嶽山 清水寺 兵庫県加東郡社町平木1194 第22番 白鹿山 掎鹿寺 兵庫県加東郡東条町掎鹿谷692 第23番 鉾礼山 正法寺 兵庫県三木市別所町正法寺157 第24番 野寺山 高薗寺 兵庫県加古郡稲美町野寺851 第25番 高和山 性海寺 兵庫県神戸市西区押部谷町高和1318 第26番 近江山 近江寺 兵庫県神戸市西区押部谷町近江174 第27番 補陀山 観音寺 兵庫県明石市二見町東二見1643 第28番 生竹山 観音寺 兵庫県加古川市尾上町池田399 第29番 道林山 横蔵寺 兵庫県加古川市平岡町新在家900 第30番 興禅山 圓通寺 兵庫県高砂市曽根町2034 第31番 大梅山 清勝寺 兵庫県姫路市大塩町1089 第32番 牛堂山 国分寺 兵庫県姫路市御国野町国分寺121 第33番 法華山 一乗寺 兵庫県加西市坂本町821-17 客番 天徳山 常光寺 兵庫県加古川市神野町神野332-1 播磨西国三十三カ寺での御詠歌は「まいれただここぞみ のりのはなのやま ほとけになると 一乗寺かな」 ■
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by seiyo39
| 2014-01-24 06:37
| 神戸以外の兵庫県
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