2025年3月1日、姫路城の特別公開で搦手周辺を観て廻りました。

上の写真は当日、歩いた経路(赤線で示した)と本日のメインテーマである
長壁神社遺趾の位置です。
井郭櫓で200円の追加入場券を購入しトの櫓、トの一門からトの四門まで
観て歩きました。

上の写真は搦手周辺の解説板(説明板)です。
城の正面の「大手」に対して裏口を「搦手(からめて)」と呼びます。
姫路城の搦手は東側に位置し、大手に較べると大天守への近道に見えます。
しかし実際は、高低差のある狭い山道に構えられた4つの門(トの一門
からトの四門)と櫓に阻まれ、敵軍勢はなかなか前へ進めません。
搦手道は秀吉の智略と姫山の地形を上手く利用した鉄壁の防御システムと
言えます。
尚、上述の門は秀吉の時代より前の赤松氏又は小寺氏が姫路市の城主であった
時代に赤松氏の居城である置塩城から移設されたとの説もあるそうです。
メインテーマから話がずれましたが長壁神社遺趾の話に入っていきます。

上の2枚の写真は長壁神社遺趾の碑と現地説明板
長壁神社は古代より姫山に鎮座する由緒ある地主神。
長壁神社遺趾の碑は大正3年(1914)に建設されました。
長壁神社の読み方は「おさかべじんじゃ」刑部神社とも書かれる。
長壁神社は姫路城歴代城主から崇敬された「姫路城鎮護の社」として崇拝されています。
Wikipediaでは次のように解説されています。
刑部神の本来の由来は、古墳時代から飛鳥時代にかけての中央豪族の私有民である部民の一つ、刑部(おさかべ)氏にあると考えられる。
刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。国司の角野氏がこの2人を守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い信仰を受けた。
天正8年(1580年)頃に羽柴秀吉が姫路城の改築を始めると、縄張り内に位置するために城下に移された後に播磨国総社である射楯兵主神社の境内に摂社として祀られたが、江戸時代になって池田輝政が姫路城に入城した際に輝政が病に倒れると、当神社を移祠した祟りであろうと噂され、城内へ戻されて八天堂として再建立された。寛永16年(1639年)に藩主が松平氏に変わると再度城下へ移され、慶安2年(1649年)に榊原氏に変わると城内の社殿を再建し、城内と総社境内の二社併存となる。
寛保元年(1741年)榊原政岑に認められ、長源寺の境内に分霊が勧請された。
大正末に、長源寺で祀られていた長壁大明神が長壁神社として独立した。
長壁神社(刑部神社)の祠は現在下記の場所にあります。
1)姫路城 大天守6階
2)播磨総社の境内
3)立町
最後に姫路城の有料入り口付近に掲示の看板の写真を
添付して筆を置きます。
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